神戸国際大学附属高校 硬式野球部の青木尚龍監督

インタビュー

高校野球監督インタビュー初回は、神戸国際大学附属高校 硬式野球部の青木尚龍(よしろう)監督です。

17年前にも取材させてもらったことがある

実は、青木先生とは今回が初対面ではありません。
私は高校時代から高校野球ライターになりたくて個人的に取材活動をしていました。

そして今から17年前、大学生の時に1度だけ畏れ多くも青木先生に取材させてもらったことがあります。

その時に教えて頂いた青木先生の携帯番号をこの17年間、宝物のように大切に残していて、いつか絶対ちゃんとライターになって、もう1度青木先生に取材に行くことを目標にしていました。
今回、満を持して、勇気を振り絞って、17年ぶりにご連絡させてもらい、このような運びとなりました。

この事は軽く触れるだけにして、2022年現在のインタビュー記事にしようと思っていたのですが、この17年前の話こそ、青木先生のお人柄がよくわかるエピソードだと思ったので、今回は17年前の話をさせて頂きます。

ちなみに私が監督さんのことを「先生」呼びするのは、高校野球に対する思いが深すぎて、「監督」と呼べる領域は私は立ち入れない部分だと思っているし、私にとっては色んな学びを与えてくださる〝先生〟の要素が大きい人達だからです。
世の中には「先生」と呼ばれるのを嫌がる人もいると思いますが、これは私のこだわりとしてお許し頂ければと思います。
めんどくさい人間ですみません。
文章として監督と書くのがふさわしい部分だけ、そう書かせてもらっています。

2005年の初取材から9年後に夏の甲子園初出場

2005年の取材時、青木監督率いる国際は2回目のセンバツ出場直後で、青木先生は今の私とほぼ同じ年齢でした。
ほとばしる情熱の中に、どこか冷静で客観的な視点をお持ちの方だなという印象でした。

その後は2010年に3回目のセンバツ出場。
でも2014年の夏まで、国際は全国屈指の激戦区兵庫県の分厚すぎる『夏の壁』をなかなか突破できずにいました。

私は2004年から今年に至るまでマスコミで夏の兵庫大会のスコアラーのバイトをさせてもらいながら毎年国際の試合を見守り続け「青木先生、がんばってください!!」と心の中でエールを送り続けていました。

2014年7月27日、炎天下の明石球場で国際が初めて夏の甲子園出場を決めた瞬間。
1992年の監督就任後、自らダンプカーでグラウンドに黒土を入れる所から始まり、それから22年もの間、決して諦めなかった青木先生の夢が叶った瞬間。
その瞬間を放送席から見られた喜びを表す言葉が、私は今もまだわからずにいます。
「うれしい!」とか「やったー!」とか、そんなインスタントな言葉で表現できるような道のりじゃなかったことが、ほんの少しは理解できるつもりだから。

青木先生はその時の心境を「ホッとした」と仰っていました。

そして初めてグラウンドから見た夏の甲子園の情景を「夏は白い服の人が多くて、ほとんどみんな白い服着ててね。ほんで外野席だけでもいっぱいで、ここに4万人以上の人らがおるんやと一瞬思ったりもしたし、それだけの数の人が真っ白に見えて、なんか写真貼ってるみたいに感じた」と振り返っておられました。
この部分を青木先生は「ゴメンね、なんか話飛んでしまったけど」と仰ってましたが、私はこの瞬間の青木先生から見えてた景色を聞かせてもらえるなんて貴重だと思いましたので、あえて書かせて頂きました。

苦しい時期に心の支えとなった監督さんの存在

前回の塾の記事で少し触れたように、私の人生も決して平坦ではありませんでした。
高3の時に両親が離婚した直後に最愛の弟を亡くしました。
弟がいなくなった時には既に両親はどちらも一緒に住んでおらず、私はそれまで疎遠だった互いに愛着のない母方の祖母と暮らしていました。
状況がヘヴィーすぎて、当時高校生だった友人達に自分の話をするのはあまりに酷だと感じ取っていたので、私は人前ではいつも明るく振る舞っていました。

その頃の私にとって唯一の心の救いは、中学時代から愛してやまない高校野球の存在でした。
毎晩毎晩、それまで何年も撮り溜めた高校野球のビデオを見ては「私、自分はこんなにしんどいって思ってるけど、高校球児は毎年がんばってて、監督さん達は何十年もがんばってるんやん。私もがんばらな!」と明日への活力に変えてまた人前で明るく振る舞い、疲れ果てて帰ってきてはまた高校野球からパワーをもらう、の無限ループでした。

高校球児に弟を重ねて見ている部分や、監督さんに父性への憧れを持っている部分があることは否定できません。
でも何よりも、私は自分自身が野球界の人達のようにカッコ良く生きたいと思っていました。
どんな時でも人に優しく気配りを忘れずにと心掛けていたのに、気持ちに余裕がなくてそれが完璧にできない自分の弱さと対峙し、日々自分との闘いに明け暮れていました。
なので高校野球の中でも特に孤独な立場の監督さん達には、勝手にシンパシーを感じていたのです。

大学時代に取材を思い立ったいきさつ

そして塾の先生の助けで2004年に大学生になると、すぐに関西のマスコミに電話を掛けまくって「高校野球が大好きなんです!なんでもしますので高校野球に関われるアルバイトをさせてください!」とお願いして回りました。

昔、熱闘甲子園に出ていた女子マネージャーだった人が、大学時代にマスコミで高校野球スコアラーのバイトをしていた事を知っていたので、大学生の肩書きがあればマスコミで高校野球のバイトができる!と踏んでいたからです。

でも、けんもほろろに何社も断られ、もう断られ慣れてきた頃にやっつけ半分で電話した局に「あーそうなん?プロ野球でも良かったら来週からおいでよ」とあっさり拾って頂きました。
そこでプロ野球の中継スタッフと夏の高校野球スコアラーを経験させてもらい、翌年から今も続けさせてもらっている所で夏の兵庫大会スコアラーを始めました。

この『大学生』という相手に安心感を与えられる肩書きは最大限利用しなければと思っていたので、その勢いのまま青木先生に取材を申し込んだ2005年の初夏。
学校に電話して青木先生に取り次いでもらい、パッションだけでお願いしてみたら「全然えーよ!」と快諾して頂きました。

まだ40歳ぐらいだった青木先生と21歳の私。
今思えば、あのとき青木先生そんなに若かったんやなぁとしみじみしますが、21歳だった私から見たら充分に大人で、大好きな世界の尊敬する人に会えた!って感じでした。

国際が初めて春のセンバツに出た2001年世代は同い年に当たるので、当時からユニフォームも校歌も全てが華やかで鮮やかなカッコイイ国際を甲子園に導いた名将・青木監督!でした。

大学生だからこそ聞けたお話もある

その時の取材時に感じたのは、青木先生はすごく人情味溢れる方だということです。
一介の大学生に過ぎない私を練習中のグラウンドに招き入れてくださり、サシでがっつり対話してくださいました。
お話ししてみると、豪快で大胆な顔と、デリケートですごく人に気を遣われる顔が同居していらっしゃるような不思議な魅力の持ち主でした。
最後に「ライター目指しとんやったら新聞記者紹介したるわ!」と、普段からお付き合いのある新聞記者の方にその場で電話してくださり、後日その記者の方に青木先生の取材をまとめた記事を見て頂くことができました。

その時、記者の方に「よぉここまで聞き出せたな!」と言ってもらえたのですが、経験値が今よりもっと少ない当時の私はキョトン。
どの辺がどうよく聞き出せてるのかさっぱりわかりませんでした。
今回、再び青木先生への取材が決まって、当時の記事を引っ張り出して読んでみたら、確かにめっちゃ話引き出せてて、ちょっと自分でも驚きました。
私が本物のライターじゃなかったからこそ、21歳の大学生だったからこそ聞き出せた話だと思います。

今、一応こうして世に出す形での取材となると、こちらもお相手もどこか身構えてしまうので、あの時、大学生だてらに気持ちだけで向かって行って本当に良かったです。

ポーカーフェイスで何でもスマートにこなす飄々とした人がうらやましくて、本当は今回の青木先生の記事も、ひょいっと書いたよ風に出したかったですが、泥臭く気持ちでぶつかることしかやっぱり私にはできないと観念して、高橋優の『虹』を聴きながら書き上げました笑。

そんな私と青木先生の17年ぶりの邂逅の様子は来週お伝えしまーす。

次回記事
神戸国際大学附属高校 硬式野球部の青木尚龍監督②

編集長

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神戸を愛し神戸に愛され続けて38年😆👍(つまり38歳)人と喋ることと文章書くことが好き過ぎて、うっかり編集長になってしまったタイプです。神戸及び兵庫県の『人』をクローズアップしたインタビュー記事をメインに、神戸っ子たちのコラムも充実♫ 地元の人にも神戸以外の人にも、軽〜く友達感覚で読んでもらえたらうれしいです😊💓

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