「滝川高校野球部・近藤洋輔監督①」

インタビュー

2022年7月21日、姫路球場。
9回裏2アウトランナー1塁。
東洋大姫路の最後のバッターをセカンドゴロに打って取り、滝川高校がシード校の強豪を撃破した。

滝川高校のベンチには、歓喜に沸くナインを見守る就任4年目の若き指揮官の姿があった。

監督就任後、5回戦に進出できたのはこれが初めてだった。
分厚すぎる「夏の壁」を有する兵庫大会においては、ブロック決勝の4回戦で強豪を倒すことには大きな意義がある。

異色の経歴の高校野球監督

自身も滝川高校のOBであり、29歳まで本気でプロ野球選手を目指し続けてきた異色の経歴の持ち主。

四国アイランドリーグ時代は、ドラフトの日に会見のセッティングをされ、スーツ姿で指名を待ったこともあった。
今でも、もしあの時指名されていたら、また別の人生があったのかもしれないと考えることもある。

それを叶えることはできなかったが、母校の監督として甲子園を目指す人生もまた、最高だ。

これまで何度もあった人生の分岐点で選んできたのは、いつだって「本気で生きる道」だった。

近藤洋輔、41歳。
この人の野球人生からは「夢と現実的に向き合う方法」をとことん教えられる。いや、突き付けられると言った方が正しい。
ほとんどの人が「そこまでやらなあかんのならやめとくわ」と二の足を踏んでしまうような茨の道を、脇目も振らずにずんずん突き進んでいくからだ。

中学時代は神戸ドラゴンズでのちのプロ野球選手たちとプレー

野球を始めたのは小学生のとき。
中学時代は1つ上の先輩がヤングチーム「神戸ドラゴンズ」に入団したのを見て、自分も行こうと思った。ポジションは外野手。たまにピッチャー。

小学生時代にテレビで見ていた、村野工業から阪神に入った安達智次郎さんも同チームの出身だったこともあり「ここならプロ野球選手になれるかも!」という思いもあった。

神戸ドラゴンズといえば、ヤングリーグの名門として誉れ高い。
近藤さんの2つ上にはオリックスに入った肥田高志さん、1つ上にはオリックスとロッテで活躍した光原逸裕さんがいて、2つ下には西武の栗山選手という後のプロ野球選手たちと同時期に在籍した。
その下にはヤクルトの坂口選手がいて、まさに黄金期だった。

神戸ドラゴンズではレギュラーこそ獲れなかったものの、試合に出るチャンスがあれば「絶対結果出すぞ!」と燃え、出られない時も決して腐らず誰よりも声を出し、ランナーコーチも進んで買って出た。

滝川高校で不老監督から熱い指導を受けた

中学から滝川だったので、そのまま滝川高校に進学。
滝川には「めちゃくちゃ野球を知ってはるすごい監督がいるらしい」という噂は耳にしていた。

滝川第二ができた時に一時は廃部になった滝川本校の野球部を蘇らせ「甲子園に出ることだけが高校野球ではない」「何よりも『人生意気に感ずる』や!」と厳しい指導の中に人間味のある熱い漢・不老監督の元で高校野球を経験。

同期はたったの5人だった代が兵庫大会で春はベスト8、夏はベスト16まで勝ち上がった。
高校時代の近藤さんは主将。めっちゃ打つし、とにかく肩が強くて余裕で外野からホームまでノーバンで返してくる選手だった。

この年に高1だった私は近藤さんたちの滝川に憧れ、以来23年も滝川野球部に惚れ込んでいるが、私の目に狂いは無かったと今もって言い切れるのは、この人たちの生き様が一切ブレないからに他ならない。

大阪経済大学で1年秋からレギュラー

その後は関西六大学リーグに所属する大阪経済大学に進学。
意外にも野球ではなく普通に勉強して指定校推薦で入学したが、滝川の大先輩の薦めで野球推薦組と一緒に入学前から練習に参加した。

不老監督からは「大学野球ナメんなよ!」と言われていたが、練習初日に「絶対レギュラーになれる!」と確信した。
大学1年夏のオープン戦で早速打ちまくり本塁打3本、打率は4割8分ほどでリーグの新人賞を受賞した。

それから今でも付き合いのある2つ上の学生コーチの先輩(現在は倉敷商業の部長)が首脳陣に「近藤を使いましょう」と推してくれ、1年秋からレギュラーに。

「同期の中では1番でしたし、それはもう滝川やからこそ。周りみんな甲子園組で滝川高校なんか誰も知らんから、絶対負けたくなかったし結果出したかった」

その後は調子の浮き沈みもあったが、「プロは無理でも絶対野球で就職する」と決めていたので、就活は一切しなかった。
今は無き社会人チームのデュプロから声を掛けられてはいたが、結局その枠には入れず。

NOMOベースボールクラブで都市対抗に出場

大学で臨時コーチをされていた元・阪神タイガースの田村勤さんに今後の身の振り方を相談すると「野球は長く続けた方が絶対良いよ!」と言われ、当時設立されたばかりだったNOMOベースボールクラブのセレクションを受けに行き、500人以上の中から選ばれし25人の中に名を連ねた。
同期には横浜ベイスターズ二軍コーチの柳田殖生さんがいる。

NOMOベースボールクラブでは野球道具は全て支給されるが給料は発生しない。
親と相談して教職免許を取りに出身大学に行きながら野球をしていた。

朝5時からスポーツクラブでバイト、昼は大学、夕方から夜の12時頃まで野球という生活をしながらも、2年目に都市対抗に出場するという名誉に預かった。
高校でも大学でも経験できなかった全国大会では、開幕試合でJR東日本と対戦。
「なんせ開会式直後の開幕試合でバタバタやったんでほんまに記憶が無くて。うわ、東京ドームや!しか覚えてないです笑」

監督から「お前をプロに行かせたい」とも言われていたが、「この生活を長くは続けられへん」と母校の滝川に教育実習に行くのを機に退団。当時24歳。

夢を追いかけ香川オリーブガイナーズに入団

このまま野球をやめるか悩み、田村勤さんに再度相談しに行くと「野球は長く続けた方が絶対いいよ!」とまた同じことを言われ、母からも「せっかくここまでやってきたんやから、最後にもう1回好きな野球やったらええやん!」と背中を押され、2006年に四国アイランドリーグの香川オリーブガイナーズに入団。

「あぁ、これで俺はますます一般的な人生からはかけ離れていくんやなぁと思った」と言う近藤さんに「周りの同級生たちと違う生き方をするのってしんどい時もありましたか?」と尋ねると「いや、それは無かったかな。まぁ好きなことやってるし、その時点ではまっだまだ本気でプロ野球選手目指してましたから!」と言い切る。

入団1年目のシーズン中は怪我に泣いたが、2006年の秋季練習でヤクルトと練習試合をした際には外野からレーザービームをいくつかパパーンと投げてヤクルトベンチをざわつかせた。

独立リーグではシーズン期間中は給料が支払われるがオフシーズンは無給なので、オフの間は何かしらバイトをしながら食い繋いでいた。

2年目の2007年シーズンはめちゃくちゃ調子が良く、前期も後期も優勝し、チャンピオンシップでMVPに輝き、リーグ全体のベストナインにも選ばれ、北信越リーグにも勝って独立リーグの全国制覇を果たす。

オリーブガイナーズの西田監督(現・セガサミー監督)からも「今年はお前プロ行ける可能性あるんちゃうか?」と期待された。その頃にはプロ野球に育成枠が設けられ、四国リーグからも毎年プロ野球選手が排出され、夢はいよいよ射程圏内に入ってきていた。

ドラフト当日、チームメイト6人ほどと共にスーツ姿で記者会見場で待機した。
結局、その中から1人だけ指名されたが、近藤さんの名前は挙がらなかった。
「自分に何かが足らんかったから行けんかったんやな」とグッと拳を握りしめた。

イチローさんに教わったこと

その2007年のシーズンオフには、あのイチローの神戸での練習の手伝いをさせてもらえる機会に恵まれた。
「このチャンスを逃したら、俺、一生後悔するわ!」と思い、最終日に勇気を出して「一緒にバッティングさせてもらっていいですか?」と頼むと「おう!いーよ!」と一緒に並んでバッティング練習をすることができた。

そして「こんなこと聞いていいのかわからんのですけど」と遠慮しながらも疑問点を次々と聞いてみたら、それらが全て解消された。
「答はなんてシンプルなんだ!」「そうか、そんなことごちゃごちゃ考えんでも良かったんか」と多くの気付きがあった。

「それは技術面の話ですか?それともモチベーション的な話ですか?」と聞くと「技術面はもう間違いなく!それが結局モチベーションにも繋がる感じですね」

29歳まで香川オリーブガイナーズで主将として活躍

3年目の2008年は主将に任命され、前期で優勝、後期は負けまくったもののチャンピオンシップでは優勝。
この年のドラフトではチームから育成枠で4人もプロ入りしたが、近藤さんの名前は無かった。

それでも諦めないのが近藤さん。
28歳になる2009年も、元気にプロ野球選手を目指していた。
昨年のドラフトで4人も抜けたため、それまでずっと1番バッターだったのが、この年は4番に抜擢される。
全然打てず、優勝も逃し、もう主将は外してほしかったけど、監督に「わしが監督の間はお前が主将や!」と言われ「わかりました!」と受け入れた。
高校時代に叩き込まれた【人生意気に感ずる】。「期待されたらその期待に応える。野球も人生も全部一緒」という意味合いの精神は、ずっと不変の心意気だ。

5年目の2010年はもうプロ野球選手は目指していなかった。
これまでの統計上、28才でプロ野球選手になった人はいたが、29歳以上はいないことを知っていたからだ。

「やりきった!」と思えたし、本当なら昨シーズンで引退しても良かったが、負けた主将で終わりたくない一心でもう1年踏ん張り、前後期とも優勝して有終の美を飾った。
球団からは残ってほしいと言われたが、父の死と母の病気もあり、母親のためにも神戸に帰ることを決心した。

「香川ではファンの方々にたくさん応援してもらったし、すごく良い街で楽しい所でした。そして最後に西田監督と野球ができてほんまに良かったです!」

教員免許はすでに持ってはいたが、ずっと本気でプロ野球選手を目指してきたので、自分が指導者になることはそれまで全く考えていなかった。

そして、ここから滝川の監督就任までもまた一足飛びにはいかず、でも不屈の精神で乗り越えて行く近藤さんを来週もよろしくお願いいたします!

次回インタビュー

編集長

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神戸を愛し神戸に愛され続けて38年😆👍(つまり38歳)人と喋ることと文章書くことが好き過ぎて、うっかり編集長になってしまったタイプです。神戸及び兵庫県の『人』をクローズアップしたインタビュー記事をメインに、神戸っ子たちのコラムも充実♫ 地元の人にも神戸以外の人にも、軽〜く友達感覚で読んでもらえたらうれしいです😊💓

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