神戸三大神社~楠公さん(湊川神社)、長田神社編~

インタビュー

楠公さん(湊川神社)

湊川神社(楠公さん)は、そもそも生田神社や長田神社とは全く系統が異なる。

湊川神社(楠公さん)

日本で最初に認定された別格官幣社

 
楠公さん=楠木正成公という偉大な武将をお祀りしていて、このように神話由来の神様ではなく実在の人物を祀っている神社のことを「別格官幣社」という。

これは明治政府によって新たに設けられた近代社格制度で「別格官幣社」に認定されているのは全国で28社。この制度は1946年(昭和21年)に廃止されている。

1872年(明治5年)に1番最初に認定されたのが、なんとこの楠公さんの湊川神社で、あの有名な日光東照宮よりも先だった。

でも実は、ここ楠公さんは、それよりもずっと前から楠木正成公のお墓として整備されており、数々の歴史的有名人も参拝に訪れている。

事の起こりは豊臣秀吉による太閤検地

 
事の起こりは豊臣秀吉による太閤検地がきっかけだった。

太閤検地でこの辺りを調べたら、地元の人々がここに楠木正成公(以下、楠公さん)を葬って手厚く弔っていたことが判明した。

摂津名所図絵

1336年(延元元年)に湊川の合戦で戦死した時、首は敗者の運命として京の六条河原に晒されたが、敵方の足利尊氏が妻子に届けたので、首塚は当時すでに楠木氏の菩提寺である大阪府河内長野市の観心寺にあった。
ここ神戸には体、もしくは一緒に自害した一族が葬られたのかもしれない。

その後免租地となり、それからは、その頃この辺りを治めていた尼崎藩の当主によって整備されてきた。

元祖・日本のスーパーヒーローだった楠公さん

 
なぜ朝廷方の楠公さんのお墓が、武士の世を経てもここまで手厚く守られてきたのかというと、歴史ファンの方なら誰もが「当たり前やろ!」と怒ってくるほどの英雄だったからだ。

私を含め、地元の人間ほど楠公さんのすごさをわかっていない気がするが、戦国武将たちもみんな太平記を愛読して、楠公さんの戦術や戦法をマネしていた。

最初は戦に勝つために読み始めるが、楠公さんのモットーは「私利私欲を捨て、日本の歴史を大切にし、公平・公正な世の中を目指すこと」であったことに、立場は違っても思わずリスペクトしてしまう元祖・日本のスーパーヒーローだった。

発言と行動にブレが無く、武勇に優れ、最後まで品行方正に誇り高く生きて戦った楠公さんの人間力に心酔した武将は数知れず。
有名なのは、お墓を作った水戸光圀公や、坂本龍馬や吉田松蔭をはじめ幕末の志士たちがこぞって楠公さんのお墓を訪れたことだが、実はその敵方に当たる新撰組のメンバーも楠公さんにぞっこんだった。

墓所

水戸黄門像

バリバリ朝廷方だった楠公さんだが、そのお考えがあまりに崇高で、幕府方の人々も「日本の国のために大切なことは何かということを、私利私欲一切なしに考え尽くし、公平・公正な世の中を目指す」という楠公さんのご意志には共感し尊敬していたのだ。

地元の人間にとっての楠公さん

どや、楠公さんがどんだけすごいかちょっとは分かったか、地元民たちよ。(主に私自身よ)

私も今回お話を伺うまで、楠公さんはあまりにも身近すぎて、全く何も知らなかった。
戦国時代や幕末の話は大好きなのに知性に欠ける私は、南北朝時代とか「マジ謎w」だった。

楠公さんといえば私たち地元の人間にとってはバスで行く遠足や修学旅行の「集合場所」の役割が最も大きく、毎回しおりにも「9:00  楠公さん集合」「15:00  楠公さん解散」と書かれていたものだ。
それも前の広場に集まるだけで、お詣りは無し。

「楠公さんの前は大型バス停めやすいからなー」ちゃうねん、先生よ。笑
そんな扱いをしているのはおそらくド地元の人間だけで、今でも歴史ファン、幕末ファンにとっては聖地とされ、全国から参拝に訪れる人が後を立たない。

楠公さんを祀る神社の場所に神戸が選ばれたのは伊藤博文の尽力だった

 
明治維新の動乱期に、薩摩、尾張、水戸など全国各地の藩が「ぜひ楠公さんを我が藩で神社を造ってお祀りしたい」と願い出ていたというのに、なぜ神戸が選ばれたのかというと、これはひとえに伊藤博文の尽力だった。

伊藤博文といえば松下村塾の生き残りであり、初代・兵庫県知事として有名な人だが、知事になる前の県の職員時代から、神戸の豪商・北風正造の援助を取り付け、同僚たちと力を合わせて、神社を建てたいと、朝廷に請願したのだ。
しかも、伊藤博文は長州藩出身だが、同僚たちの出身は尾張藩や薩摩藩など様々だった。このしたたかさと楠公愛は「ヨッ!さすが松下村塾出身!」の一言だ。

「じゃあ色んな意味で全国みんなの力で神戸に建てるのがいいね」と、1868年(明治元年)に明治天皇の御沙汰を受け、他の藩や国民からも多くの寄付寄贈が寄せられた。そして、知事になった伊藤は7700坪もの土地を自ら測量し、1872年(明治5年)に創建。日本で最初の別格官幣社となった。

創建直後

楠公さんの存在もあり神戸は大きく発展

開港したことも相まって、その後の神戸の経済的発展は皆さんご承知の通りで、大阪ー神戸間に日本で2番目に鉄道が走ったのも、遠方から楠公さんにお詣りしやすくするためだった。

「楠公さんて、マジ駅チカ!」と思ってたけど、あえて楠公さんの近くに駅が作られたのだ。この取材の日まで、楠公さんをホンマに近所のおっちゃんぐらいの感覚で接していた自分を叱ってやりたい。

その頃の神戸駅周辺は楠公さんを中心に大賑わい。境内には芝居小屋、料亭、寄席などあらゆる娯楽があり、「勧業場」という3階建てくらいの複合商業施設も建ち、なんと日本で最初の水族館まで作られた。



更には関西で1番最初に電灯が点き、参道には楠公さんの家紋である菊水の紋の電飾が煌めいていて、明治時代は「楠公不夜城」と呼ばれていた。

明治期の神社門前の賑わい

でも「さすがにやりすぎちゃうか、ここは神社であって聖域やし」という話になり、1922年(大正11年)に、賑やか組はみんな隣の新開地へ追い出されてしまう。水族館は須磨まで追いやられたようだ。このように、楠公さんは元々は大衆の遊び場だったのだ。

その後、1935年(昭和10年)は楠公さんが亡くなって600年ということで「大楠公600年祭」の記念に本殿が新しく建て替えられた。「空前絶後の大行事」と言われるほど、市内も1ヶ月間は楠公一色だったそうだ。
2日掛けて灘区の篠原から須磨の一の谷まで歩く「楠公武者行列」も、それはそれは豪華絢爛だったとのこと。湊川公園に楠公像が建てられたのも、これを祝っての神戸新聞社の企画だった。

神戸の人々が大変だった頃の楠公さん

戦争中は「楠公さんをなんとか守らなければ」と地元民のみならず、全国の楠公さんファンが心配していたが、1945年(昭和20年)3月17日の空襲で、あろうことか10年前に建てられたばかりの本殿が焼失した。

その後、全国からの寄付により、1952年(昭和27年)に当時最先端だった鉄筋コンクリート造の本殿が建てられた。

拝殿

本殿-外本殿

戦後たった7年という早さで建て直されたというだけで、楠公さんがどれほど日本人に大切に思われていたかがよくわかる。
何度でも言うが、特に大切に思ってなかったのはド地元の人間だけだ。もしくは私とその周辺だけだ。

阪神大震災では鉄筋コンクリート造が幸いして灯籠が倒れる程度の被害で済み、地元の人々に給水や炊き出しをしてくださっていた。

コロナ初期にも、安産祈願で有名な楠公さんは、さらしの腹帯でマスクを作って地元の人々に配ってくださったそうだ。

清らかながら親しみやすい楠公さんの神職さんたち

 
「いつも祈ることしかできないお仕事なんです。参拝に来られる方や、世の中がいつも平安である為に、毎日お祈りしています」と凛として話される巫女さんは、そのただずまいがもう神々しかった。

「神職は清貧であるものだと思うんです。欲があまり無い人が多いと思います。足るを知って幸せに暮らしている人が多いと思います。自分の体や境内はいつも清潔にして、神様の力を頂けるようにしています」

穏やかな微笑みをたたえながらそう口にする巫女さんから邪なものは一切感じられず、俗世に生きる私の頭は自然にどんどん垂れていった。

それだけ聞くと、私たちとは遠い世界の人のように感じてしまうかもしれないが、楠公さんは「武の神様」だけに、神職さん達の雰囲気は3社の中で1番ラフだと思う。

朝の早い時間に行くと、境内の清掃をしている若い神職さん同士が、フツーの男子っぽい話し方で会話していたりもするし、インスタではよく皆さん踊っていらっしゃる陽気な神社だ。
でもどなたも話しかけてみると丁寧に対応してくださる。

巫女

昭和祭

色んな気付きを頂けた広報室長さんのお話

担当してくれた広報室長さんは「20年くらい前、若い方が『楠公さん』と呼ばなくなってきている時期がありましたが、インスタもそうですが、色々親しまれる工夫をして、今は、また『楠公さん』と愛されていることを感じます。気軽に呼んでほしいし、気軽に参拝にいらしてほしいです」と仰っていた。

信心深い家庭に育った室長さんは、学生時代にアルバイトとして湊川神社の巫女さんになり「神様にお仕えする仕事が好きなんやったら」ということで導かれるようにここまで来たという。
確かに「この人なら、そら導かれるわ」と思うような、清らかさの中にユーモアもお持ちの、とても素敵な人だった。

「うちの職員は、いつも‘和’を大切に神様にお仕えしています」とにこやかに仰る室長さんに「神様のご加護を感じることってありますか?」と聞いてみると「もう毎日です!」とさらにニッコリ微笑んでいらした。

「今日は晴れて良かったな、ありがたいな。祭典や行事の前に雨が降ったら清めて頂いたんだな、ありがたいな、です。捉え方ひとつとも言えますが、感謝をするということは、謙虚になり、かつ、何事も明るく前向きに捉えるということだと思います。日々の生活の中で自然とそう捉えるのは、ご奉仕の日々で培われた思考のクセ、とも言えるかもですね」

「これは私たちが神社で働かせていただいているからご加護を受けてるということではなく『感謝の気持ち』を持つことを心掛けていると、どなたでも感じられることだと思います。ぜひ5分でも10分でもいいので、神社に来て、心静かな時を過ごして、それぞれに何か感じてみてほしいです」

楠公初詣

楠公さんの氏子区域

 
楠公さんが私の氏神さんであることも、出身の町名から室長さんが教えてくれたのだが、楠公さんの氏子区域は、南は「東川崎町」東は「元町7丁目」西は「新開地1〜2丁目」、北は少し広くて「荒田町1〜4丁目」。

ご自身の氏神様がどこか分からないという方は、お近くの神社に問い合わせて頂くと、すぐに教えてもらえるそうですよ。

最後に

 
ちなみに、この楠公さんの歴史は、「明治期の隆盛」までは、湊川神社のHPに詳しく書いてあります。

そして楠公さんでは月1回、3歳〜12歳までの子供向けに「寺子屋」も開催されているそうです。

あぁ楠公さん、今まで本当にごめんなさい。
私はようやく悔い改め、元々の氏神様である楠公さんを、これからはちゃんと敬います。

皆さんも、よろしければ、またスーパーヒーロー楠公さんにお詣りに行ってみてください。

今回の楠公さんの歴史、全部知ってたわという方には、こんな笑止千万な話にお付き合い頂き、本当にありがとうございました!笑

そして快く色んなお話をしてくださった広報室長様に、心から御礼申し上げます。

長田神社

長田神社の創建は、なんと西暦201年。
1800年以上もこの地を護って来られている。

長田神社は出雲大社系列の神社

日本書紀によると神功皇后という人の命を受けて生田神社、廣田神社(西宮市)と共に建立されたとされ、長田神社の御祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)。

小難しい話はさておいて、この「事代主神」だけでも覚えて帰ってくださいね。

この神様は、出雲大社の御祭神・大国主神(おおくにぬしのかみ)の実の息子さん。

だから長田神社は国津神である出雲大社系神社の代表格なのだ。
ややこしい話になるので重要なキーワードだけ羅列しときますので、ご興味ある方はぜひ調べてみてください。
「天津神」「国津神」「国譲り」など。(私もよくわかっていないので迂闊に説明できないのです笑)

ほんでこの事代主神の別名は、七福神の「恵美主さん」。

おぉ、えべっさん!
と思いきや、今宮戎、西宮戎、柳原戎などの所謂えべっさんは厳密には「蛭子(ひるこ)さん」に該当し、事代主さんとはまた違うそう。

蛭子さんの話も面白いので、もしご興味あればググってみてください。

そんなわけで、長田神社の摂社としてお父様にあたる出雲大社が鎮座していて、宮司さんによると「長田神社の中の出雲大社でお詣りしても、島根の出雲大社と同じご利益があります」とのこと。
出雲まではなかなか行く機会が無いという方は、ぜひどうぞ。

事代主神は、福の神として「商売繁盛」や「開運招福」「厄除け」などで崇敬されている。

盛大だった長田神社の初詣

が、長田神社は、もはや存在そのものが神戸市民の心の拠り所になっている気がする。

あの盛大な初詣が楽しみだという人も多いだろう。
コロナ前は大晦日の0時から1月3日の夜まで、長田神社前商店街は交通規制がかかって歩行者天国となり、神社の境内から商店街の入口まで、露店がずらりと立ち並び、三日三晩の大賑わいだった。

それもコロナ以降、ホコ天タイムは大晦日の0時から元日の午後5時までに大幅縮小されてしまった。神戸市民にとっては悲報だが、露店商との兼ね合いもあり、今後もこのままになりそうだとのこと。

そしてこの機会に宮司さんに「商店街のもう少し西にも大きな鳥居がありますが、あれは?」と尋ねてみると「本来はね、あっちの西側の鳥居が表参道になるんです。そしてお詣りをした後は商店街側に出るという流れが正式なんですよ」

そうだったんだ。
今まで、ただなんとなく西側から入る道の方が「ゆく年くる年」っぽい風情があるので、年越し直後の夜中に厳かな気持ちでこっちから行く派で良かった。

そしてお詣り後は商店街側の露店で色々飲み食いして満腹で帰るか、その足で楠公さんにも行く(もしくは逆)のが神戸の下町民族の年越しあるあるだろう。

私を含め、神戸下町の民は「長田神社が1番屋台多いから行こか」と屋台の数を基準に初詣先を選びがちだ。
そして生田神社は「三が日は混んでるやろし、落ち着いてから行こ」となりがちだ。

長田神社の宮司さんも「長田神社は下駄やつっかけで来れる地元の神社やからね。三宮の生田さんには、ちゃんと靴履いて行かなあかんよ」とユーモラスに話してくれた。

神戸三大神社で唯一戦火を免れた

そんな地元に愛されてきた長田神社は、実は神戸三大神社の中で唯一、空襲で焼け残った神社だった。

本殿の屋根が銅板だったことで焼夷弾が滑り落ち、突き刺さっても爆発しなかった。

生田神社も楠公さんも焼けてしまった戦後の神戸で、長田神社の存在はどれほど神戸の人々の心の支えになっただろうか。

戦後、多くの寺社が再建するときに銅板をチョイスし、最近はチタンが多い傾向にあるという。

阪神大震災の時は避難所として地域に貢献

阪神大震災の際は、本殿の倒壊は免れたものの、鳥居は根元から折れ、手水舎や灯籠などは全て倒壊し、神社の石垣も総崩れになってしまった。

「ただ、幸いなことに石垣は全部神社側に倒れたので、ご近所に迷惑を掛けずにすみました。昔の人はよう考えて作りはったんやなと感心しました」

長田区は被害が大きかったので、長田神社はその後約1ヶ月の間、150人の避難者を受け入れ、社務所が避難所となっていた。

社務所は無傷だったものの2階のシャンデリアが割れていたため、高齢者と女性と子供は社務所の1階で受け入れ、男性は外にテントを張って寝泊まりしてもらった。

学校など「官」が管轄する避難所とは違い、あくまでも「民」の避難所だったので、避難されている方のお名前などは「官」に把握されておらず報道もされないままだった。

電話回線が復旧すると、ご家族や親戚の方が確証の無いままジャンジャン神社に電話を掛けてきて、その度に神職さんたちが「○○さん!いらっしゃいますかー!?」と名前を呼んで回ったが結局見つからないことも多く、大きな模造紙に名前や行き先を書いてもらうなど対応するも「これはさすがに神社では無理がある」と区役所にお願いに行って、震災から1ヶ月後に区の指導の下、この時には100人を切るほどの避難者の方々には向かいのビルに移ってもらった。
神社を出る際、避難者の有志の方々が「お礼に」と70万円も寄付してくださったという。

あの地震後のドタバタの中、長田神社はこうして地域社会に貢献されていたし、人々もそれをありがたく思っていた。

私は18歳から足掛け15年も長田区に住んでいたのに震災後からコロナ前の姿しか知らなかったが、今の宮司さんが知る限りでもこんなに色々なエピソードがある。
1800年の歴史を遡れば、一体どれだけの出来事があったのだろう。

長田神社の宮司さんはとても気さくな人

今の宮司さんは1968年(昭和43年)から長田神社に来られ、2015年(平成27年)から宮司をされている。
滋賀県のご出身で、ご実家は木津川近くの神社。
宮司は同じ県内なら掛け持ち可能だが、県をまたいでの掛け持ちはできないそうで、ご実家の神社は息子さんが継いでくれることが決まったので、正式に長田神社の宮司になられたそうだ。

長田神社は神職さんたちが落ち着いた雰囲気なので、宮司さんなんてもうほぼ神みたいな人だろうと思っていたけど、お話ししてみるとものすごく気さくな人で驚いた。
そう伝えると「せやろ、それがウリやねん」と大らかに笑っていらした。
こちらでも「神様のご加護を感じることってありますか?」と聞いてみると「うーん、よぉわからんけど、あんまり何事も心にわだかまりは持たへんね」とニコニコ話されていて、むしろその感じが逆に神っぽかった。

仏教の僧侶とも仲が良く、鬼を追い出さないことで有名な長田神社の節分は臨済宗の僧侶が行っている。神仏習合の名残りなのだろうか。

病気治癒で有名な楠宮稲荷社

そして長田神社といえば末社の「楠宮稲荷社」が痔に良く効くと有名で全国から参拝者が訪れるそうだが、宮司さんに「痔以外の病気治癒も可能なんでしょうか?」と伺うと「お稲荷さんやからね、基本的に何でも大丈夫です」とのこと。
お稲荷さんなのに「赤エイ」の可愛い絵馬が人気なこちらのお稲荷さんもすごく情緒がある。

長田神社は三大神社の中では場所的に1番ひっそりしていますが、昭和3年に建てられた今の本殿はもとより、摂社末社も全部本格派なので、本殿だけでなく、ぐるりと1周されることをおすすめします。

これからも末永く、長田神社が神戸の人々と共にあらんことを願います。

編集長

編集長

神戸を愛し神戸に愛され続けて38年😆👍(つまり38歳)人と喋ることと文章書くことが好き過ぎて、うっかり編集長になってしまったタイプです。神戸及び兵庫県の『人』をクローズアップしたインタビュー記事をメインに、神戸っ子たちのコラムも充実♫ 地元の人にも神戸以外の人にも、軽〜く友達感覚で読んでもらえたらうれしいです😊💓

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