久保田学園のボスに取材に行った日、ボスにお会いする前に、まず入口で、C先生と久しぶりに再会した。
挨拶もそこそこにお話をしていて、C先生が本当に私たちの学年の子を全員覚えてくれていたことに、まず驚いた。
こういうところが久保田の好きなところだ。
早くも温かい気持ちになった。
少し遅れてやってきたG先生は「あぁC先生お久しぶりですー。」と、ものすごく久しぶりの再会だと言っていたわりには、まるで昨日も会ったかのような自然さで入ってきた。
こういう感じも久保田っぽい。
奥の教室に通されると、C先生は私とG先生の飲み物を買いに、コンビニに走ってくれた。
私もG先生も「持参してるので大丈夫です。」と何度も言ったが、C先生は「ボスから絶対飲み物買ってきて出してくれって言われてるから!」と譲らなかった。
その日頂いた烏龍茶は、いまだに開封できずにいる。しばらく宝物にしたいと思っている。
そしてついにボスが姿を現した。
まさにラスボス!と構えていたが、ボスは噂通り、とても気さくで陽気だった。
御年72歳。この年代の男性でこんなにも屈託のない方は初めて見た。腰が低いのとも違う。ボスは極めてフラットでフランクな人だった。
「ほなまぁ始めましょか。」ということで、いよいよボスのこれまでの人生と、塾を始めた経緯を伺った。
久保田学園のボスの人生と塾を始めた経緯
1950年2月、まだ戦争の爪痕が生々しく残る神戸の兵庫区菊水町で、男3人兄弟の次男として、ボスはこの世に生を亨けた。
隣の家には空襲の跡が一部残っていて、磯上などの南部には、まだ米軍が接収した跡地が残されていた。
明治生まれの父は、銀行員だったが結核を患い、ボスが生まれた頃は職を失っていた。
なので父は会社勤めに対して安心感を持っておらず、3人の子供たちには「自分の力で食っていけ。」「将来1人で食べていけるように手に職をつけろ。」といつも言っていた。
湊川周辺には大きな商店街が現在も広がっているが、当時は、新開地から烏原のふもとまで、ずーっと商店街が続いていて、同級生も大半が商売人の子供だったこともあり、「将来自分で食べていくのは当たり前」という感覚は、小さい頃から持っていた。
少年時代
まだ湊川公園に神戸タワーがあり、新開地に20軒以上も映画館があった時代の、兵庫区の下町育ち。
戦後間もなくて誰もが貧しく、近所同士で助け合うのが当たり前、という感覚で育った。
小4くらいまで、町内にテレビがある家などほとんど無く、夜は湊川公園に1台だけあった街頭テレビの前に、多くの人と一緒に群がって、力道山と巨人の試合を見るのが楽しみだった。昼間は仲間たちと一緒に烏原や会下山を走り回り、勉強とは全く無縁の少年時代を過ごした。
中学時代
神戸市立夢野中学時代は、1学年18クラスで1クラス55人もいた第一次ベビーブームの団塊世代。
中学入学時には、全学年合わせて54クラスあり、学校全体の生徒数は3千人を超えていた。
人数が多すぎて学校のグラウンドでは運動会もできず、明石の競輪場跡地や王子公園で行われた。
教室も足りずに、中1の時は運動場に、中2の時は学校の屋上にプレハブ小屋が建てられたが、夢野中学は山の中腹に建っているので、冬は隙間風がひどいし、とてもじゃないがまともに勉強に集中できる環境ではなかった。
さらにボスは、上と下の兄弟が優秀だったことから、自分は勉強ができないと思い込んでいた。
中学生の時に、小学生の弟に勉強を教えてやろうとしたら、逆に教えられ「俺は勉強が向いてないな。」と、すっかり自信を無くしてしまった。
今思えば、弟はのちに大学教授になるほどだったので、そもそも比べる相手が悪かったのだが、中学生ではそこまで客観的に見ることなどできなかった。
中3の夏に兄から「入試もあるんやし試験前ぐらいちゃんと勉強しろ。」と叱られたのを機にやっと腰を上げたが、勉強のやり方がさっぱり分からず、兄に「どないしたらええの?」と尋ねると「9科目の教科書9冊分、全部自分の言葉でまとめろ。」と言われ、当時人気のあったラジオの深夜放送を聴きながらひたすらまとめていった。
すると成績が上がり始めて、試験の結果も良く「もしかして人間てやったらできるのかな?」と思った。
その後も、周りの受験への熱気がすごかったので、つられるように勉強した。
中1から中3まで全ての科目を順にまとめてみたことで、一気に見通しが良くなった。
このときの事がきっかけで、勉強のやり方というものを掴んだ。
高校時代の二人の恩師との出会い
当時は内申が無い代わりに、入試は9科目一発勝負。ボスは、地域のトップ校である兵庫高校に入学した。
でも、小学生の頃から、勉強の細かい部分が気になっていた。例えば「なんで分数の割り算は逆にかけるんやろ?」とか「国語で『文脈や流れからこの答えになる』ってどういうこと?」という疑問が、次々浮かんだ。
しかし、中学まで勉強しなかったので、それらの疑問は、ほったらかしたままだった。
高校に入ってからも「英語はそもそも日本語と語順も違うのに単語山ほど覚えて意味あるんか?それより文法ちゃんと覚えた方が良いんちゃうん?」など疑問に思い、自分なりにやり方を考えたりしていたことが、今思えば『教える』ことの下準備になっていた。
そして兵庫高校で、両極端な2人の先生との出会いにより、大きな影響をを受ける。
東京外大出身の英語のW先生は、疑問をぶつけても「理屈言わんと素直に覚えろ!」と一刀両断する『とにかく暗記!』派。
一方、東大の数学科科出身で哲学も学ばれた数学のT先生は「世の中科学で分からないことなんかあるですかね?」と尋ねれば「そもそも『科学』という言葉を使っているけど『科学』とは何かキミ説明できるか?」と『常に本質を突く』派。
先生によってこんなにも言う事が違うなんて「は?結局どういう勉強の仕方がええの?」と問題意識が芽生えたが、教科的な特性もあるから、どちらも一理あると、今ならはっきり理解できる。
この2人の先生からの学びによって「人間にとって『わかる』とは一体なんなん?」というのが、塾を開く上で、ボスの考え方のベースのひとつになった。
でも当時は、先生の言うことが違いすぎることに悩んで、教科の内容が頭に入ってこなくなり、高2からは学校に行くのが嫌になってしまって、あまり学校に行かなくなった。
ある日、担任から電話があり「あと何日か休んだらもう1年余分に学校通うことになるぞ。」と言われ、ただでさえ嫌なのに、もう1年行くのはもっと嫌だ!と、また学校に行くようになった。
その後は、何日か休んだせいか心に余裕ができ、不思議と学校で学ぶことがスッと頭に入ってくるようになった。
大学生の時に実家の一室で塾をスタート
高校を無事に卒業し、大学生になると、自身が勉強に困った経験から「困っている子たちにその経験を伝えたい」と思い、夏休みに家庭教師のバイトをした。
その際に教えた3人の生徒全員が、兵庫高校に合格。
すると、その合格した3人の生徒の兄弟や親類たちから「勉強を見てほしい。」という声が出たことにより、大学4年の終わり頃に実家の一室で塾を始めた。
1972年、ボス21歳の時だった。
そんなボスが、本格的に塾をやっていこうと思ってから現在に至るまでの経緯は、次回に続きます。来週もお楽しみに〜。
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