『奇跡みたいな塾』
今でも人生の中で本当に困って心折れかけた時、いつも助けてくれるのは、塾の先生だ。
私だけじゃなく、卒業生の何人もが、そうだという。
『奇跡みたいな塾』というのも、友人の1人が評した言葉だ。
特定の先生ではなく、それぞれバラけているところが、またすごい。本当に不思議な塾。奇跡としか言いようがない。
塾の名は久保田学園。
おそらく神戸の人なら「あぁ!久保田ね!」と、すぐに分かってもらえるであろう地域密着型の大手学習塾だ。
久保田の先生から人生のここぞという時に助けてもらっている元生徒の1人として、私のケースを思い出と共に書いてみたいと思う。
小学生時代
私が久保田に行き始めたのは小5のとき。
周りの同級生が一斉に久保田に通い始めたのを見た親に、ムリヤリ入れられたのがきっかけだった。
久保田学園 熊野教室の思い出
当時通っていたのは、今は無き熊野教室という信じられないほど高い石垣の上にある所で、階段を登るか、ぐるっと周って坂を上がるかしないといけない場所にあった。
久保田学園 熊野教室
私たちの学校からすると一応校区外だったので、日頃、学校の先生から「校区外には絶対行ってはいけません!」と口うるさく言われている中、大手を振って子供だけで校区外に行けることもうれしかった。
熊野教室といえば、最初に思い出すのは、玄関を入ったところに置かれていたピンク色の公衆電話のこと。
電話を掛けるときには、電話機の横の引き出しみたいなのを開けると、無数の十円玉が入っていて、それを使えば実質無料でかけ放題だった。
外にある公衆電話ならお金が必要だが、ここの電話なら、この無限にある十円玉でなんぼでもタダでかけられる。なんと子供心をくすぐる代物だろう。
本来は親に迎えに来てもらう連絡のみ使用可、というものだったが、ちょっとやんちゃなよその小学校の子たちと共謀して帰り際にイタ電をしまくって遊んでいた。ダメなことをしているという背徳感が、さらに子供心を燃え上がらせた。
みんなに「親分」と呼ばれていたA先生に見つかって大目玉をくらうこともあれば、ちょっと愉快なB先生の場合はプリントを丸めたものをメガホン代わりに「こらー、そんな余分な事をしているヒマがあったらとっとと帰るか再テストを受けるか今すぐ決めなさい!さぁ決めなさい!十円玉は直ちに返しなさい!」と面白おかしいリズム感で窘められ、それがおかしくてみんなケタケタ笑いながら蜘蛛の子散らすように塾を飛び出し、当時大流行していたマウンテンバイクで家路に着いた。
B先生は一挙一動が常に踊っているようなリズミカルさで、とにかく存在がコミカルだった。
A先生も普段はとてもユーモアがあり、授業前に子供たちに「宿題忘れたもん(者)!」と問うとき、大体私は颯爽と挙手するタイプだったが、それに対するA先生のリアクションが、毎回目を見開いて両手をガバッと広げ「ぬわんとッ!」と心底驚いた!というような演技をするのが面白くて印象に残っている。
他にもあちらこちらから手が上がると、1人1人に向かって「ぬわんとッ!」「ぬわんとッ!」とご丁寧にリアクションしてくれるのだ。中には「ぬわんとッ!」が見たくてわざと宿題をしてこなかった子もいたかもしれない。いや、それはウソだ。
A先生とB先生以外は、ほとんど大学生のアルバイト講師だった。
みんな兵庫高校か夢野台高校出身でカシコの大学に通っていて、今思えば大学生なのにどうしてあれほど、と思うほど、包容力と優しさと面白さを兼ね備えた上に、教え方が上手い先生ばかりだった。
小6のとき、久保田の国語の授業で受けたテストの最後に、お題に沿った作文を簡単に書く問題があった。
その時に大学生のC先生が、私が書いた作文をみんなの前でゲラゲラ笑いながら読み上げ「お前の文章むっちゃおもろい!」と言ってくれ、私は自分が書いた文章を誰かが面白いと言ってくれる喜びをこの瞬間、初めて味わった。
それ以来、すっかり味をしめて、元来調子乗りの私は現在に至っている。私を調子づかせた大元の原因であるC先生の罪は深い。
ちなみに小学生の頃、私はわりと勉強ができる方だった。
特に国語が得意で、塾で受けた兵庫模試という県下一斉テストで2位になったことがあるのが自慢だ。だって兵庫県内で2位なのだから大したもんだ。
社会も得意で、全国の工業地帯と工業地域を瞬殺で覚えたし、各都道府県の名産品なんかもすぐ習得した。たとえば鯖江=メガネ(理由:水がきれいだから)、とまぁこんな具合だ。
そうやって調子に乗った状態で私は中学生になった。
中学時代
中学生になると、小学生の時から知っている大学生の先生達が、もう近所の馴染みのお兄ちゃんのような感覚で、みんなめっちゃ懐いていたし、先生達も私たちをかわいがってくれていた。
うちの地元は神戸でも下町なので、先生も子供もコミュニケーション能力が高くて屈託がなかったという地域性もあったのかもしれない。
中学時代は菊水教室とシャトラン(シャトランというマンションの2階にあった当時の本部)に通っていた。どちらも今はもう使われていない。
久保田学園 菊水教室
久保田学園 シャトラン
塾の行きしは、大体1人で歩きながら、カセットウォークマンでPUFFYやCHARAを聴きつつ、夢野2丁目の歩道橋を渡っていたことを覚えている。
帰りは、当時最先端のCDウォークマンを持っていた友人にマウントを取られながら、同じ中学のみんなと大人数でドヤドヤ帰った。
そして毎回、うちの家の近くで遅くまで喋り続けるのがお決まりで、あらゆるしょーもない話を延々していた。
あくまでも塾帰りの中学生なので、多少帰りが遅くなっても親からもお咎めなしだったのだ。
うちの中学の私たちの学年は、明るく元気な子は多かったが、いわゆる『不良』はいなかったこともあり、塾帰りに遅くまで外にいる自分らイケてる!とさえ思っていた。
ちなみに、うちの学年で1番ワルかったと言われている子でも、ちゃんと勉強するべきかヤンキーになるべきか悩みに悩んだ挙句、盗んだバイクで塾に行く(久保田ではありません)というわけのわからないことをしていたほどにマジメな学年だった。
それにほら、私は小学生の頃は勉強ができたし、久保田では学校の授業を先取りで教えてくれたので、中学のテストでもそこそこの点数を取れていた。
なので私は完全に学校の授業をバカにしていたし、学校の先生に対しても反抗期全開だった。
余裕しゃくしゃくで授業中は個人的な読書にふけり、よくわからない理由でクラス全員に「連帯責任」と称して反省文を書かせる先生に、ふざけ散らかした反省文を書いては怒髪天を衝くほどキレさせ、毎日書いて提出する決まりの個人日誌は白紙で出して、担任にため息をつかせてばかりいた。
私は知らなかったのだ。
高校受験において最も重要なものは『内申点』だということを。
いや、うすうす知ってはいたが、まさかそれほどまでに重要だとは思っていなかった。
それに気付いたのは、中2の2学期。
突然、塾でも学校でも、勉強についていけなくなったのだ。
それまでも理数系は嫌いだったが、ここまでどうしようもなくいつまでたっても分からないようなことはなかった。
英語も副詞や冠詞が出てきた辺りから、突然理解不能に陥ってしまった。
そうしている間に、得意だった国語にも古文漢文が入ってきて、もう八方塞がりだった。
学校のテストの点も、みるみる下降していった。
もう内申点の方は、挽回のしようがないところまで来ていた。
なんでもっと学校の先生に媚びを売っておかなかったのか、悔やんでも悔やみきれなかった。
高校受験のときに久保田に助けられた
中3になり、いよいよ受験する高校を決める三者面談のとき、担任から薦められたのは、前途洋々だった中1のときには完全に想定外だった普通レベルの公立だった。「ここでもちょっと難しいかもしれへんけど。」と言われた。
その日の夜、厳しかった親にボコボコになるほどシバかれた。
後日、久保田の先生にも受験校を報告したら、バイク乗りでいつもヘルメット片手に現れるD先生に「え、ウソやん?多分お前もうひとつ上んとこでも受かるで?」と言われた。
中学の先生は中学の先生なりに、可能な限り確実に受かる高校を薦めてくるというのは有名な話だった。
しかし、どれだけ親が怒ろうが私の成績は変えられない。「せめて何がなんでも公立にいけ!」というミッションに怯え倒した私が受験前に頼ったのは、やっぱり久保田だった。
E先生に半泣きで「公立絶対受からせてください!」と懇願した。
するとE先生は、いつものにこにこ笑顔のまんま「オッケー!」と軽く言い放ち「お前の場合は国語と社会はある程度できるから、理数と英語の入試の過去問をひたすらやれ!」「今年は多分この辺りが出るから、それに近い問題が出た年の過去問だけやればいいわ!」とあっさり言われた。
久保田は、その当時でも25年以上続いている塾だったので、先生達は今年の傾向と対策がバッチリわかっていたのだ。
併願の私立は2月に既に受かっていたが、そこに入るという甘えた選択肢は親に許されなかったので、公立入試前2週間ほどは、毎日シャトランに通ってひたすら過去問を解き、自己採点し、間違えていたところをE先生に解説してもらう、を繰り返し続けた。
何度も何度も同じ系統の問題をやり続けている内に、今まであれほどわからなかった理数も、英語のリスニングも、なんとなく自分でも手応えを感じ始めるようになってきた。
それでもやっぱり不安だったので、入試前日にE先生に「私、大丈夫かなぁ?受かるかなぁ?」と聞いたら「100パー受かる!俺が保証したる!」と断言してくれて、おかげでものすごく安心して受験に挑むことができた。
おまけに運の良いことに、当日はどの教科も特に自信のある問題ばかりだった。
入試の翌日に新聞に回答が載せられるので、それを元に自己採点してみたら、なんと5教科500点満点中420点ぐらい取れていた。
これは内申点がものすごく良ければ、兵庫高校も夢じゃない数字だった。
それでも合格発表までの数日は心からは落ち着かなかったが、高校の掲示板に自分の受験番号を見つけた瞬間「ほらな!私が落ちるわけないやーん!」と、ようやくいつもの調子乗りに戻った。
久保田からは生徒全員に、受験の結果が分かったらすぐに連絡するよう言われていたので、私はその足でシャトランに向かい、「せんせー!受かったーーー!」と喜びを爆発させた。
私は決して無謀なチャレンジをしたわけでもないのに、先生達はみんな大喜びしてくれて「おぉーっ!よぉやった!よぉ頑張った!おめでとう!!」と拍手喝采で祝ってくれた。
私が高校に入ったら、親は一転して放任主義となり、あの受験戦争は一体なんでしたん?というほど自由で楽しい高校生活を謳歌した。今でも1番仲良しなのは、同じ高校の友人たちだ。
もう勉強はこりごりだったので、高校になっても久保田に通い続ける地元の同級生たちを「あんたら変わっとんな。高校なってまで勉強して何が楽しいん?」と思っていた。
大学受験のときの久保田への感謝
そんな私がまた久保田のお世話になったのは、二十歳の時だ。
高3のときに、私は弟を亡くした。
弟とはとても仲が良く、頼み込んで同じ高校に入ってきてもらった。
高校でも、学校帰りにたまたま同じ電車に乗り合わせたら、お互いの友人と連れ立って一緒に喋りながら帰るほどだった。
大好きな弟との思い出がフラッシュバックする通学路が辛くて、学校に行けなくなった。行こうとしても、途中で動けなくなってしまうのだ。友人たちに支えられてなんとか行っても、校内のあちらこちらで弟を思い出すのが苦しくて、すぐに早退するようになった。
家にいてもどこにいても辛いのは変わりなかったが、学校で何食わぬ顔をして友達と話したり笑ったりする余力がなかった。
私はそれまでずっと明るく元気なムードメーカーだったので「辛いねん。しんどいねん。」という本音は、なんか相手の期待を裏切ってしまうような気がして、誰にも言えなかった。
それなら「今日ダルいからサボるわー!」ってハナから休むか早退している方が、まだ私らしいと勝手に思っていた。
なので、もちろん留年した。
それも友人には「ダブってんけど!バリうけるやろー!」って、自ら笑い話にした。
まさか私が弟を亡くしてしばらく経っても、まだそこまで落ち込んでるとは誰も思っておらず、みんなめっちゃ笑ってくれた。
私の狙いは誰にも気付かせないことだったので、みんなの反応に逆に安堵していた。
大好きな友人たちが卒業してしまった翌年は、ますます高校から足が遠のいた。
車の免許取り立ての友人たちが、朝、学校まで送ってくれることもあったが、それでもやっぱり辛かった。
学校で弟の同級生たちが楽しそうにしているのを見ると「なんでうちの弟はここにおらへんのやろ。」と、どうしようもない悲しみに襲われ、今でも鮮明に覚えているが、校舎の入口の階段に座っていたギャルたちがSteady&Coの『春夏秋冬』という歌の「季節は流れてー!過ぎ去りし日々よー!出会いや別れでー!新たな旅路をー!」というフレーズをノリノリで歌っていたときに、「そんな簡単に切り替えられへんわ。」と完全に心が折れてしまい、それ以来、二度と学校に行かなかった。
今ではこの曲を「めっちゃ懐かしいー!」と聴けるし、流行歌を歌う女子高生の集団を見かけたら目を細められる心の余裕が戻っているが、その時のその光景に感じた、やり場のない怒りに近い感情は、忘れられずに心の片隅に今も残っている。
当然、さらにもう1年留年した。
3年目の高3は、一度も学校に行かずにいたら、ずっと私に手をこまねいていた高校の先生に、ある日ファミレスに呼び出され「お前はもう学校辞めて定時制行け!」と言われた。
全く親身な言い方では無かったので、事実上の厄介払いだった。
そんなわけで二十歳の時に定時制高校に転入した。
ここで私は、担任からの熱望のおかげもあり、やっぱり大学に行こうと決意する。
定時制高校から大学に進学するケースはごく稀で、担任から「学校の実績としてお前を大学に送り出したい!」という話を何度もされた。
最初は「今更いいわ。」と断っていたが「内申点も他に大学受験者がおらへんから存分に下駄を履かせてやる!」と言われた瞬間、私は目を輝かせた。
中学のときに散々泣かされた内申点というものが、ようやく手に入る!これはチャンスだ!脳内にジョックロックの音色が響き渡った。
「先生!この学校の名誉のためですもんね!やりましょう!」
私と担任はガッチリ手を握り合った。
そう、私は本当にとんでもなく調子乗りなのだ。
ただし、定時制高校なので推薦枠というオツなものは無く「すまんけど自力で入ってくれ。」と担任に言われ、私立大学なら公募制推薦という誰でも受けられる推薦入試があるとのことで、それで受けることにした。
公募制推薦の受験科目は、国語と英語と小論文。あとは面接。
国語と英語なら、まぁなんとかなるかなと、本屋で色んな大学の赤本をペラペラ見てみたら、難しすぎてビックリした。
なにしろ高1から全く勉強に触れていなかったので、英語はもちろん、得意だった国語でさえも、大学入試レベルとなるとお手上げだった。
さっそく途方に暮れた私は、とりあえずまた半泣きで久保田に駆け込んだ。
たまたま、小、中とお世話になったF先生がいらっしゃったので、事情を話し、さらに恥ずかしいことに、その頃我が家は両親の離婚で本当にお金が無くて、あの頃みたいにまともに塾に通える経済力が無いことも伝えた。
ふんふんと話を聞き終えたF先生は「よっしゃ、ほなタダで教えたる!その代わり明日から毎日来い!」と言って、ニッと笑った。
もう言える限りのお礼を述べて家に帰ってから、1人で号泣した。
ありがたくてありがたくて、涙が止まらなかった。
久保田の先生ってやっぱスゲーわ、と改めて実感した。
翌日から、行ける限り毎日、久保田に通った。
厳密に言うと、そこは久保田が当時やっていた個別指導の『スタディアシスト』というところだった。
集団授業ではなく個別指導だったのも、2年ダブりの私には気楽でありがたかった。
夕方から定時制高校に行きながらバイトもしていたので、午前中から昼過ぎまで塾に行った。
すでに2年留年してるので、もう一浪もできないということで、F先生と相談して、ここなら受かりそうだと思われる2つの大学に的を絞った。
どちらも仲の良い友人が通っている大学だったので、大学から願書をもらってきてくれたのも提出しに行ってくれたのも友人だった。
F先生と二人三脚で半年ほど受験勉強に励み、最初は意味不明だと思っていた大学入試の国語も英語も、受験直前には「いやこれ受かるかもしれん!やっぱ私って天才!」というところまで持っていくことができた。ほら出た、また調子に乗り始めた。
そうして私は2つの大学の計3学科、全てに合格した。
F先生に涙ながらに報告しに行くと「おめでとう!ほんまに良かったな!この半年、よぉ頑張ったもんな!」と、手放しで喜んでくださった。
この時のF先生への感謝は、きっと生涯忘れない。何度もお礼は言ったけど、何度伝えても伝えきれないほどありがたく思っている。
今なら分かるが、高校受験のときも大学受験のときも、すごかったのは久保田の先生方だ。
やり始めたときは「何も分かりません!何が分からないのかさえ分かりません!」状態の子を、試験直前には「いや絶対受かるわ!」と思えるところまで引き上げてくれるのだから。
なんと今でも久保田の先生に助けてもらっている
実はこのwebマガジンを立ち上げてすぐに、インタビュー記事の構成に行き詰まったときにも、また藁にもすがる思いで久保田の先生に頼った。
小、中時代に教えてもらっていたG先生が、物書きを生業とされていらっしゃるので、まずはこのwebマガジンのURLを送り「インタビュー記事の原稿にアドバイスを頂けたらうれしいです。」とお伝えした。
すると「編集長挨拶がめっちゃ面白いやないですか!物書き力あるね。僕は無いから羨ましい限り。原稿見るのはおこがましいぐらいですが縦横斜めに絡まったお話を解きほぐすのはずっとやってきたので、良かったら原稿見ますよ。」とお返事を頂いた。
「あー、この感覚懐かしいな。」と思った。久保田の先生のこの感じ。まず褒めてくださる。そして寄り添おうとしてくださる。
G先生は当時大学生だったが、あの頃から物腰柔らかく穏やかで爽やかで、女子中学生に絶大な人気を誇っていた。
私はおぼこい中学生だったので、単純にG先生が優しいから好きで懐いていたら、本気でG先生のことを好きだった違う中学の先輩に呼び出しをくらったこともある。
私の原稿を送ったときも、まずは良い所を褒めてくれ、そして「もうちょっとこうしてみたらもっと良くなるんじゃないかな。」と、さりげなくアドバイスしてくださった。
G先生のおかげで、失くしかけていたモチベーションを取り戻し、なんとか完成させることができた。
2度、先生にご相談させてもらって、アドバイスを頂いた。
そうして完成した記事は、取材相手の方にも大変喜んでもらえて、本当にうれしかった。
「ありがとうございます!先生のおかげです!」と言う私に「もうこそばゆいから先生はやめて(笑)」とサラッと返してきはる。
いや、どう考えてもいまだに先生ですやん、と思うのでこれからも先生と呼ばせていただく。
でも今回は、塾で勉強を教えてもらうのとはワケが違うし、先生もお仕事をされているので「また本当に困ったときだけご相談させてください。」とお伝えした。
結局、この歳になるまでお世話になってるなんて、どこまで奇跡的な塾なんだろう。
他の友人も、結婚式に招くほど仲が良い先生がいたり、今でも困ったことがあると必ず相談する先生がいたりしている。
そんな久保田学園を創った塾長ってどんな人?
そういえば、久保田の塾長っておったよな。
確かみんなが『ボス』って呼んでた、よう喋るおっちゃん。
ボスにインタビューして、なんでこんな塾を作れたのか直接聞いてみよかな?
私はなぜか、ボスの授業を受けたことは無い。
久保田で見かけたことは何度もあるけど、若い先生ばかりの中で唯一おっちゃんだったからか、私はちょっと近寄りがたくて怖かった。シャトランに行ってボスがいたら、いつもビビっていた。
でもボスの授業を受けたことがある友人達に聞いてみたら「ボス全然怖ないで。ただの陽気なおっさんやで。」と言うので、じゃあそれを信じてお願いしてみようと思い立ち、とりあえず久保田のホームページを見てみたら、小5の時からバリバリにお世話になっていたC先生がまだいらっしゃるのを知ってうれしくなり、久保田に電話してC先生に事情を話した。
名乗ってから「あのー、私のこと覚えてらっしゃいます?」と尋ねると「あぁもちろんさ!忘れた日なんて無かったよ。」と懐かしいノリで返してくださり、ホッとした。
しかし、この時ふと、私の調子乗りの一端を担っているのは、そもそもこの人たちなのでは…という疑問が頭をもたげた。
久保田の先生は、多感な時期に影響を受けた人たちなので、全く無関係だとは誰も言い切れないと思う。
そしてC先生のおかげで、すぐさまボスにも快諾して頂き、最初のお電話以降はメールでやり取りさせてもらっていたC先生が「昔と変わらず、いい加減で良い加減?な塾なので気楽にやり取りしてください。」とお伝えくださったのだが、あぁ、本当にそうだな、それが久保田の本質であり核心の部分だな、と感じた。
G先生にも「今回先生に再会したおかげで次の取材先を久保田の塾長にしようと思いつき、C先生経由でお願いしたところ、快く引き受けてもらえました!なんだかおかげさまで本当にありがとうございました!」とお伝えしたところ、G先生も「久しぶりにボスにもC先生にもお会いしたいから取材同行させて!」と仰ってくださり、インタビューという形での再会劇が、ようやく幕を開ける。
次回は、そんな久保田のボスが何がどうなってこうなったのか、生い立ちから詳しく伺ってきた編でーす。
久保田出身者じゃなくても神戸の人じゃなくても、教育者として、経営者として、立派な方の「私の履歴書」を読む感覚でお読み頂ければと思います、ってまた調子乗って、自らめっちゃハードル上げてしまって、自分でもついていけませんが、頑張って書きますのでよろしくお願いいたします。
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