【東洋大姫路・藤田明彦前監督〝憧れの連鎖〟】

インタビュー

この人に憧れたことのない高校球児は、少なくとも兵庫県にはいなかったのではないだろうか。

端正なルックスに東京暮らしで洗練された立ち居振る舞い。スマートな身のこなしとは裏腹に燃えたぎるほどの情熱。

藤田明彦さん。
言わずとしれた東洋大姫路の前監督。

高校球児たちの憧れだった藤田さん

藤田さんに憧れた多くの球児の中で、その思いが最も熱を帯びているのは東洋大姫路の部員たちだと思う。

1番近くで生き様を見てきた部員たちに、卒業して数十年経った今も「人生で出会ってきた中で1番かっこいい人です」と言わしめるなんて、さすがは兵庫県が誇る憧れの野球人だ。

私は高校時代、週に1回のペースで東洋大姫路のグラウンドに足を運んで練習を見学させてもらっていた縁で同世代の部員の方々と面識があり、今回はそのおかげで藤田さんの取材をさせていただくことができた。

2022年3月をもって東洋大姫路の監督を勇退された藤田さんは、現在はご自宅がある東京にお住まいということで、取材場所は藤田さんの高校時代のチームメイトが総監督をされている東亜学園(東京都)のグラウンド。

藤田さんには高校時代にグラウンドですれちがう際に何度かご挨拶させていただいた程度で、もちろんあちらは記憶されておられなかったが「昔、来てくれとったんやってね」と笑顔で迎えてくださった。

相変わらず男前でいらして、重圧から解放された今、監督時代よりのびのびした印象で明るく軽やかでお元気そうにされていてうれしく思った。

藤田さんは厳しい監督を演じていた?

そして今回は、取材準備として同い年のOBに監督との思い出や印象的なエピソードを事前に聞いていた。

元部員の山中くんによると「当時、藤田監督は厳しい監督を演じておられたように思います。学校で会うときの優しい監督さんと、グラウンドで会う厳しい監督さんは、別人みたいだったんです。」

「ある日、練習も終わりに近付いた頃、ケガで練習を外れてた自分を監督さんが呼びました。何事かとビクビクしながら近付くと『山中ぁ、首もんでくれないか?』と首を揉むように言われました。そして恐る恐る首に触れ、揉もうとしたのですが、首がカチカチに固まっていました。
『山中ぁ、首硬ぇだろ?大きい声を出すのも疲れるんだよ。俺だって大声上げて怒鳴りたくないんだよ。しんどいんだぜ怒るのも』
と話してくれました」

「普段あれだけ恐くて近寄り難いオーラを出してる監督さん。あれは素の監督さんの姿じゃなくて、全ては東洋大姫路野球部の為にやってくれていることなんだ!とわかりました。
監督さんも満身創痍で僕達野球部員と向き合ってくれているんだと気付きました」

これを聞いて、あぁ本当にそうだったんだろうなと感じながら、こんな本質的なことを高校生の時に気付けていた山中くんもすごいなと思った。

ただ、私のような若輩者がそれを藤田さんに直接尋ねるのには躊躇いがあり、話の流れで聞けそうなら聞いてみようと思いながら取材開始。

高校時代の二人の恩師

その場に藤田さんの同級生である東亜学園野球部総監督の上田さんもいらしたので、まずは自然とお2人の高校時代の話題に。

藤田さんはご自身も東洋大姫路の出身で、兵庫県で三連覇を果たした時代に在籍しておられた。

「兵庫県は非常に連覇がしづらい県で、その後は県内で三連覇という学校は出ていないので、これはやはりすごい記録だなと思います」

「私の恩師である当時監督をされていた田中さんとコーチの梅谷さん。このお2人が東洋大姫路を強くしておられたんです」

東洋大姫路の初代監督は梅谷さんだった。
昭和44年の夏、若干27歳にして監督7年目の梅谷さんが、ついにチームを初の甲子園に導く。

梅谷さんは決勝戦の日の夜、前々からその手腕を見込んでいた田中さん(当時は姫路商業監督)の自宅を訪れ「東洋大姫路の監督になってほしい」と頭を下げた。

「若干27歳で初めて甲子園に行ったんですから普通は有頂天になりますよ。でも自分はコーチになってバトンタッチする。それは東洋大姫路の長い歴史を作るためにどうしても必要なんやと」

田中さんはそれまで何度も梅谷さんからの要請を断っていたが、東洋大姫路が初めて甲子園出場を決めた日の夜に来てくれたその情熱に心を動かされ、ついに承諾。

「それから田中さんは鬼になられたそうですよ」

姫路商業時代の田中さんは優しい監督だったという。

「それなのに東洋大姫路で厳しい指導をされたのは、梅谷さんの気持ちに応えてあげなきゃいけないっていう思いがあったんじゃないですかね。自分じゃない自分を演じるっていうんですか。私は田中監督に『藤田、監督というのは俳優にならなあかんのやで』と教わりました」

監督は本来の自分である前に俳優であれ

山中くんの話と自然にリンクしたので驚きながら、藤田さんに「実は」と山中くんの話をすると「山中がそんなことを。・・そうか、わかってくれてた奴がいるんだねぇ」としみじみされていた。

あの頃の藤田さんはとても厳しい監督で「かっこいいし憧れる。でもすごく厳しい人」というのが部員からのイメージだったように思う。

そんな中「厳しい監督を演じていた」ことに当時から気付いていた部員がいたのは、もしかしたら藤田さんとしても意外だったのではないだろうか。

「普通の自分でやってたら高校野球の監督はとてもできないです。田中さんに少しでも追いつきたい、教わったことはしたいと思ってたので、できるとしたらそういうことかなと。自分じゃない自分を演じられるかどうかが勝負じゃないかと。私はどちらかというと女兄弟の中で育った弱々しい男の子だったんで、そんな弱っちいやつが人を指導する立場になったときにしなきゃいけないのは『自分じゃない自分を演じられるかどうか』が1番大きな鍵だと思い、毎日そう自分に言い聞かせてグランドに行ってましたよ」

すさまじい覚悟を背負いながらグラウンドに立っておられたことを知り、当時、藤田さんに憧れていた高校生の1人だった私にとって、この言葉はとてつもない重みを持って響いた。

世代間で連鎖していく憧れ

そしてみんなが藤田さんに憧れていたように藤田さんにもまた憧れの恩師がいらしたことを知り、高校野球の歴史の長さや伝統の奥深さを改めて感じることとなった。

「田中さんは特攻隊の生き残りで死線を彷徨って来られた人だから、当然、高校野球の指導の仕方も私たちとは全く違うんですよ。とても真似なんかできることはないです」

田中さんは普通ありえないような作戦を繰り出しては見事に当てる人だったと具体的なエピソードも沢山話してくださったのだが、そのお話しがとても面白く、今までお名前しか存じ上げなかった田中さんが私の中で躍動し、ベンチで采配をふるっておられる姿が目に浮かぶようだった。

中でも特に印象的だったのは、高校3年間でスクイズを決められたことが1度もないというお話。

「相手チームが、意表をついた場面でスクイズを敢行してきても、全部読んでて外すんですよ」

「私が社会人野球をして5、6年経った頃、27、8歳になってましたかね。その時にたまたま田中さんと徹夜で話す機会があって、なぜスクイズだとわかったんですか?と問いかけたんです。すると『それはな、三角点を見るんや』と。『三角点というのはな、藤田。バッターとサードランナーとベンチ。この3つがピタっと重なるところがあるんや。そこを見つめてると、どこかに何かしら動きがある』って言われて、社会人野球の監督時代も高校野球の監督だった19年間も、ずっとそこを見てました。それでも私にはわからないことが多かったですが、その三角点を見つめてスクイズが外れたことは一度もなかったです。本当にすごい監督でした。あの監督だったから三連覇というのは成ったと思います」

内容の興味深さもさることながら、なんだか藤田さんが田中監督のことを話されるときの様子と、山中くんが藤田監督のことを話すときの感じが似ている気がして、素晴らしい指導者の方々が作ってこられた東洋大姫路の三世代分をダイレクトに感じられたことに、気を抜くと泣いてしまいそうなほど感動しながらお話を聞いていた。

藤田監督が作り上げた東洋大姫路

そして私が、いよいよ本当に泣きそうになったお話しがある。

私が高3だった2001年の夏、東洋大姫路は甲子園に出場した。
アン君が1年生ながらに大活躍したあの夏だ。

「正直、あの年で監督を辞めようと思ってたんですよ。あの年にヒゲを生やしてたのは結果を残して東京に戻ろうと自分の中で勝手に決めて。だからヒゲを生やしたのはそういう事情があって。その夏に甲子園に出場できて、やっと良い形になって結果が出たんです」

「甲子園の2回戦で岐阜三田とやっていい勝ち方をして、その次の試合では如水館の迫田さんという有名な監督さんと息詰まるような投手戦の接戦をしたんです。
相手ベンチの迫田さんを見ながら、本当ならここに田中さんか梅谷さんがいるべきだと思いつつも本当に東洋大姫路らしい求めてた試合ができたんですよ。最後はスクイズを決めて4対3で逃げ切って。あの試合のあとは田中さんも草葉の陰で喜んでくれてるだろうなって自分の中で満足感みたいなものがあったんです。本当に良い試合ができたんで」

「その翌日にどこかのグランドを借りて練習があったんですよ。その練習が終わったときにグランドの始末の仕方、整備の仕方。これをグランド管理者の方が来られて『監督、ええチームやな。ええ子を持っとってやなぁ』って言われてね。『こんなきれいにしてくれるチーム無いで。ゲージの片付けからグランド整備からゴミ拾い。こんなことまで丁寧にしてくれるチーム、ほんとに無いんや』と。それをやってくれたのが山中なんです」

田中さんと梅谷さんが作った「強い東洋」「夏の東洋」は、野球だけではなく細やかな配慮まで褒められるほどのチームとなり、レギュラーメンバーではなかった山中君が「好プレー」でそこをカバーリングしていたことも東洋大姫路の歴史の確かな1ページであり、これは藤田さんが作られた東洋大姫路だ。

「山中がやってくれてた事は褒められてから気がついたんです。あぁ丁寧にやってくれてるんだなって。褒められたことがものすごく嬉しかったんで、その日の夕食の時に3年間で初めて褒めたんですよ。良いチームだったな、よくやってくれたと。そのときに褒めたことで多分、魂が抜けてしまったかな。それが15対0という次の試合に繋がってしまったんじゃないかと、今でもずーっとその反省してるんです。あの時に一番よく動いてくれてたのは山中だったんで名前が出てパッと思い出しました、あの時の光景を」

実は山中くんは高2の秋に選手からマネージャーに転向していて、その時にお父さんから言われた「残念やけど、チームのために与えられた仕事を一生懸命やるんやで」という言葉通り、今も監督の記憶に残るほどの仕事をしっかり果たしたのだった。

「あの学年はね、2年の夏に負けたあとグランドに戻ってすぐ自主的に練習を始めたんですよ。本人たちは悔しかったんだと思います。試合に出てる子もいましたからね。翌年の夏に甲子園に行けたのはそういう理由じゃないですか。こっちからやらせたんじゃなく自らやったっていうのは大きかったと思います」

卒業後もOBの憧れであり続けた

他のチームでも強かった世代の部員ほど卒業後も監督をよく慕い背中を追うものだと思うが、東洋大姫路の場合はそれがとても色濃い。

山中くんが、さらにこんな話を聞かせてくれた。

「卒業してから東洋大姫路の試合を観に行く時は、東洋と反対側のスタンドで観戦してました。そうすると東洋ベンチが見えるからです。監督さんが見えるんですよ。監督さんがベンチから選手に声掛けるんですけど、それが僕に言ってくれてるように感じて、それで元気もらってまた頑張るみたいな感じで、試合も観るけど監督さんを観ている。そんな感じでしたね。
監督として最後のセンバツを決めた近畿大会も息子を連れて滋賀まで観に行きました。
そこでも反対側のスタンドから監督さんを見てて。兵庫県大会でシードだと地元の姫路球場で試合なんですけど、東洋大姫路と反対側のスタンドに座る先輩、後輩、まぁまぁいましたよ。しかも1個上、同級生、1個下と年の近い人ばかりでした。みんな監督さんに会いに来てたんだと思います」

「その時に気付いたんですけど、試合前のグラウンドでのアップ中に、監督さんがノックバットを持って外野の芝生をゆっくり、ゆっくり歩くんです。
初めは何気なく見てたんですけど、何回か見に行くうちに、監督さんが歩いたところが東洋大姫路の陣地になっていくように見え始めたんです。
相手側の内野と外野の芝生の境目くらいまで歩いて、そのまま外野のフェンスに向かって歩いて。時折止まってノックバットを使ってストレッチしたりバットを軽く振ったり。
そうして東洋大姫路側まで帰って、ほぼ一周してるんですよね。そしたらスタンドから見るグラウンドが、監督さんのおかげで東洋大姫路のグラウンドかのように見えるんですよね。不思議な感覚でしたね。
監督さんは意識されて歩いておられたのかどうかはわかりませんが、選手達がリラックスしてプレイできるように歩いてるのかなって勝手に感じていました」

これを聞いた私は単純な発想で「もしかしてそれも東洋大姫路指導者の伝統なのかな?」と思い、後日、藤田監督にその件について尋ねてみた。

「グラウンドの特徴を掴むことと、グラウンドが味方になってくれないか、そんな思いを込めての散歩でした。社会人野球の監督時代もしてましたよ」

「私はダッグアウトでも『動』のタイプでしたが、恩師の田中監督は座右の銘にしておられた武田信玄の風林火山の言葉通り、ダッグアウトでは『動かざること山の如し』でした」

私の愚問にまで、こんなに真摯にお答えくださったところにも、藤田さんのお人柄が滲んでいた。

心根も優しい東洋大姫路野球部

東洋大姫路の野球部は、田中さんと梅谷さんが育てられた藤田さんも、藤田さんに育てられた私と同世代の部員たちも、皆さん野球が上手いだけでなく、とても心優しい人たちだ。

野球の技術のみならず、人間として1番大切な「心」も豊かに育まれてきた東洋大姫路は本当に素敵な野球部だなと改めて感じた。

そんな野球部の礎を築いてくださった梅谷さんと田中さんにも心からの敬意と感謝を込めて。

藤田さんの背中を追っていた部員たちの姿を目の当たりにしながら高校時代を過ごすことができて、そして今になってこんな話を書かせてもらうことができたこと、とてもうれしく思います。

この度は貴重なお話を聞かせていただきまして、本当にありがとうございました。

編集長

編集長

神戸を愛し神戸に愛され続けて38年😆👍(つまり38歳)人と喋ることと文章書くことが好き過ぎて、うっかり編集長になってしまったタイプです。神戸及び兵庫県の『人』をクローズアップしたインタビュー記事をメインに、神戸っ子たちのコラムも充実♫ 地元の人にも神戸以外の人にも、軽〜く友達感覚で読んでもらえたらうれしいです😊💓

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