村上たつま 神戸に登場したZ世代の市会議員

インタビュー

1992年11月6日。神戸市兵庫区の川崎病院で産声を上げた男の子が、のちに神戸市初の平成生まれの市会議員になるなんて、その時その場にいた、まだ誰も知らなかった。

その男の子こそが、2019年の神戸市会議員選挙に兵庫区選挙区から立候補し、当時最年少26歳にして、初の平成生まれの市会議員となった村上立真(たつま)。

兵庫区を離れて久しい私にとって、村上議員は「兵庫区を通る度にやたら目につくポスターの人」で、ついに神戸にもこんな若い議員が現れたのかと驚いていた。

取材を思い立った経緯

このwebマガジンで久保田学園の代表インタビューをさせてもらうことになり、色々調べていたときに検索にヒットしたのが、この村上さんだった。
公式HPの経歴の1つに『久保田学園塾講師』とあり、取材の際に久保田のボスに尋ねてみたところ「そうです!彼は中学からうちの生徒で、大学生の時からうちで講師のバイトしてたんですよ!」とお聞きした。

神戸市初の平成生まれの市会議員なんて、ものすごく興味深いので、インタビューしてお話を聞いてみたいと思ったけど「あのポスターの人」がどんな人なのか全然知らなかったので、まずはボスのインタビューにコメントをもらうという形でコンタクトを取った。

その時に初めてお会いし、お話してみるとすごく朗らかな下町男子だったことにホッとして、もうその場で「できれば今度は村上さんのインタビューもさせてもらっていいですか?」とお願いしてみたら「あ、全然いいっすよ!僕で良ければ!」と快活にお引き受けくださった。

村上さんは、コテコテの下町系関西弁を話し、まるで上方落語家のような語り口。
当意即妙にして軽快なトークから、頭の回転の速さがよく分かる。村上さんのセリフ部分は月亭八光の喋り方をイメージしながら読んでいただければ、雰囲気が伝わりやすいかと思う。

Z世代議員の「SNSしぐさ」

まだ20代ということもあり、今ドキの感覚を持ち「SNSしぐさ」も、議員としては前衛的。
公式アカウントで発信する内容のメインは、もちろんお仕事関連だが、それに次いで多い、小学生の頃から大ファンだというオリックス関連の投稿などは、非常にラフなもの。

「ツイッターもフェイスブックも学生時代からのアカウントをそのまま使ってて、それが公式アカウントになっただけなんですよ。インスタは議員になってから始めましたけど。SNSは学生時代からフツーにずっとあったものなんでオリックスのこととかは普通に20代の若者として趣味としてやってますね」

SNSがあるのが当たり前の世代に育ち、付き合い方が自然と身に付いているから、上手く緩急をつけられているようだ。

「SNSはあくまでも僕の個人的なものなんで、人を傷つけない範囲であれば別に何書いてもええんちゃうかなと思ってます」

そんなZ世代の市会議員は、一体どのような生い立ちなのか、詳しく伺ってみた。

実家は港湾資材を取り扱う材木会社

兵庫区生まれの兵庫区育ち。
会下山町のご出身で、実家はJR兵庫駅近くで神戸港の港湾関係の資材を取り扱う材木会社。
JR兵庫駅を中心とする兵庫区南部は、昔から材木屋が多くあるエリアで「材木町」という地名まであるほど歴史も古い。

「神戸港に1番強い市会議員」とSNSでも謳っているように、港湾関係の家業を見て育ち、現在も市会議員を務める傍ら、家業も手伝っている。
ちなみに「オリックス」と「亀」にも強い。

創業者の祖父は養父市出身で、曽祖父は軍人だった。祖父より上の兄たちはみんな大学まで出ているが、早くに曽祖父が他界。生活は一気に困窮し、祖父は尋常小学校しか出られず、一旗揚げようと神戸に出てきて、港湾関係の材木資材を取り扱う仕事を始めた。現在2代目を継いでいる父は、大学まで器械体操の選手で国体に出場するも、その後はケガで断念。祖父も父も人生順風満帆とは言えないものの、それぞれ苦労しながらも家業を守ってきた。

村上さんは4人兄弟で、姉と2人の妹がいる。
「そしたら跡取り息子として可愛がられて育ったんですか?」と尋ねると「いや家族はね、なぜか昔からみんな僕に厳しいんです。女系家族の中で肩身の狭い思いをしながら育ちました」

村上議員の学生時代

経歴は、みなと幼稚園→会下山小学校→湊川中学校→兵庫高校→兵庫県立大学経済学部→早稲田大学大学院政治学研究科

「跡取り息子と言いながら中高大と公立やったんですけど、一応これでも幼稚園と大学院は私立出てるんですよ!」

小学生時代

私立みなと幼稚園をご卒園後、神戸市立会下山小学校に入学。当時は少年野球に打ち込んでいた。

「僕らの代はそこそこ強かったんです。野球部の友達らと少年団のバレーボールに出よかということになって出場したら神戸市で優勝したんです。それも圧勝でした。野球では優勝できなかったチームがバレーボールで優勝した!という話です」

中学・高校時代

湊川中学校では野球部で県大会に出場し、第47代生徒会長も務めた。トライやるウィーク(兵庫県の中学2年生が1週間の職場体験をする活動)では1日だけ中華同文学校、残りの期間は幼稚園に行った。

兵庫高校でも野球部に所属。
高校までスポーツに励み、空手の黒帯も持っている。

まさに文武両道。
ご本人にそう言うと「『文』の方はわかりませんけど『武』の方はまぁそれなりにやってました」

高校は進学校なので、課題や宿題が山盛り出されるため、予習をしっかりして行く必要があった。
「だから予習してないと恥かくじゃないですか。それはちょっと嫌やったんで、恥かきたく無いが為にめっちゃ予習して行ってました」

高校入学後、初めてのテスト順位は、忘れもしない280人中269位だった。
中学の時はそんなに勉強してなくても2.3位を取れていたので「あら?」となり、それからは部活もしながらひたすら予習をしていたら、高2の時には文系の中で50位ぐらいまで成績を上げることができた。ただやるべきことをしっかりやってただけだと思っていたから、自分でも驚いた。
好きな科目は日本史。文系だけど、実は数学も得意だと胸を張る。

大学・大学院時代

大学受験では神戸大学を受けたが、当日問題を解きながら「あ、これ落ちるなぁ!」と思った予感通り華麗に滑り、後期入試で兵庫県立大学経済学部に入学した。神大と県大という組み合わせから分かるように「とにかく家から近い大学がいい」という一心だった。

大学時代は、校内の留学生支援会に入って海外の友達を作ったり、久保田学園で塾講師のバイトをしながら過ごした。兵庫区の下町の生徒たちからは「たつま!」と呼び捨てにされながら慕われていた。
大学を卒業したら家業を継ごうと思っていたが「敷かれたレールに乗るより自分で何かしてみたい」と考えるようになり、大学3年の終わりには、就活はせず大学院に入ってキャリア官僚を目指そうと決めていた。

京大と東北大の大学院を受けるも不合格。
早稲田大学公共経営大学院に滑り込み、政治学、行政学、経営学などを学んだ。

「だから僕ねぇ、よぉ受験落ちてるんですよ。上手いこといったんは高校受験ぐらいのもんで、あとは全部落ちてます!」

大学まではあんなに家の近くがいいと言っていたのに、大学院は他府県ばかり受験したのは「一人暮らしをしてみたかった」から。

そんな「たつま」が上京後、なぜキャリア官僚ではなく市会議員になったのか、次週その全貌をお伝えします。お楽しみに!

次回インタビュー

編集長

編集長

神戸を愛し神戸に愛され続けて38年😆👍(つまり38歳)人と喋ることと文章書くことが好き過ぎて、うっかり編集長になってしまったタイプです。神戸及び兵庫県の『人』をクローズアップしたインタビュー記事をメインに、神戸っ子たちのコラムも充実♫ 地元の人にも神戸以外の人にも、軽〜く友達感覚で読んでもらえたらうれしいです😊💓

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