ニューオリンズから帰国後、大学3回生のときに春日野道で1人暮らしを始めた深澤くんは、水道筋のチンタという居酒屋で音楽の先輩でK106というバンドの一平くんとバイトをしていた。
カレーの道へ進むきっかけ
チンタの店主に「店は夜だけやねんし、昼間うちの店でなんかしたら?」と持ちかけられ、簡単そうやからという理由でカレーかラーメンにしようと思った。
「カレーなら作り置きができるしそっちでいこう!」と色々作ってみた。
一平くんはカレー作りにすぐ飽きて音楽の世界に戻っていったが、深澤くんは段々カレー作りが面白くなってきた。
でも最初の頃に作ったカレーは周りから「美味しくない」と酷評される。
負けず嫌いの深澤くんは本格的にカレーの勉強をしたかったけど、まだ学生でお金が無かったので、そこから会う人会う人に頼んでカレーを食べに連れて行ってもらった。
友達のお父さんや近所の人など、本当に色んな人に色んなお店に連れて行ってもらっていたという。
その頃には「就職はせずにカレー屋をやりたい」と思っていたので、とにかくカレーを食べまくった。
そうしていたら、自分が作るカレーも段々美味しいものができるようになってきた。
昼のお店用に作ったカレーの残りを捨てるのがもったいなくて、自転車で無料〜300円ぐらいで、余ったカレーを配って回った。
そして元町のカレー屋、ゲストプレイスルーシー(現・やさい食堂 堀江座)で働き始めた。
25歳で自分の店を持つことを目標に、夜はバーで働いたり運送の仕事をしたり福祉施設の給食を作ったりしてお金を貯めながら、カレーの勉強に邁進した。
25歳のときにマンドリルカレーとして独立
そして本当に25歳のときに、元町のイカリヤのビルで居抜き物件をDIYしたマンドリルカレー1号店をオープン。
マンドリルという屋号は深澤くんが好きな70年代のアメリカのファンクバンドの名前から取った。
モハメド・アリのテーマソングにも使われている有名なバンドだそうだ。
2013年から法人化して複数店舗展開を開始。
深澤くん曰く25〜30歳までは膨張してた時期で「若くして経営者になってイキってました」とのこと。
その時期に、お店に置くビールもオリジナルのものにしたくてビール事業にも乗り出したものの、1年で撤退。
3店舗目を出したときはビール事業も並行しながらだったので、カレーに集中できず店も上手くいかなくなり、反省した。
仏・リヨンストリートフードフェスからの方向転換
そんなとき、フランスのリヨンで開催された『Lyon Street food fes』に参加。
有名なフレンチシェフたちの中で「マンドリルのヒロキ・フカザワ」として紹介された。
が、その時に、なんだか今までの自分が恥ずかしくなったそう。
飲食店として、もっとちゃんと付加価値を作っていこうと決意し、利益追求はそれ以来やめた。
沖縄居酒屋金魚や土佐清水ワールドなど飲食店運営を得意とするワールドワンに店舗運営は任せて、マンドリルとしては商品の企画開発に力を入れている。
オリジナルのインスタントカレーやソースを開発し、最近はケンミンビーフンやイスズベーカリーという神戸の老舗企業とコラボしたり、ラジオ番組のスポンサーも始めた。
カレーサイトの運用もしていきたいと思っている。
今回お話を伺って
今回、お話を聞かせて頂いて感じたのは、深澤くんは気さくな下町気質はそのままに、35歳にして内面的にどっしりとした社長さんになっているということ。
もう昔の泣き虫ヒロキの面影はどこにも無かった。
これからも神戸を代表する若手経営者の1人として、さらに活躍の場を広げていかれるであろうことがありありと想像できる。
深澤くんが試行錯誤を重ねに重ねて作り上げたマンドリルカレーは、本当に、美味しい。
そしてつい最近、我々の母校跡地にできた商業施設『NATURE STUDIO』にマンドリルカレーの新店舗がオープンした。
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