人の「死」というものに、歳をとるほどに弱くなって来ている実感がある。
今年に入り知り合いが2人亡くなったのだが、特別仲が良かったというワケでは無いのに、それどころかむしろ仲が悪かったほどなのだが、その人に対しても「死ぬまでことは無ぇだろうよ」
と思って悲しくなってしまう。
知り合いならまだしも、テレビで見る人や芸能人などの訃報でも心がズンと重くなる。全く知ら ない人なのに、あまつさえ喪失案のようなものまでがある。ナイーブが過ぎるな。
俺のじいちゃんが死んだ時、その火葬場を管理しているオジサンが「おい、マスター。俺は死んだ人の顔見れば、その『未練』がわかるようになってきたんだわ。おまえのおじいちゃん、本当はまだまだ生きたいって思ってるはずだぜ」と語りかけてきた。
なるほど。長年こういう所でお勤めされていりゃあ、そりゃもしかしたらその「未練」みたいなも のもわかるようになるもんか。
たしかにそんな事もあるのかもな、と、立ち上る煙を眺めなるその非日常性も相俟って、オジサンの言ってる事はすんなり腑に落ちた。
それから10数年が経ち、今度は親父が死んだ。 火葬場のオジサンはまだココに居て、そしてもうすっかりお爺さんになっていた。
じいちゃんの時と同じく煙が止む頃話しかけてきて、「マスターよ。俺『その顔見れば未練がわかる』って言ってたけどな、アレは違ってたと思う」。
「その人に未練が残ってたんじゃなくて、俺の方にこそ『もっとこの人と酒飲んでお喋りした かったな』って未練があったんだなって分かったんだよ。ただ俺が『もっと生きてて欲しかった な』って思った人たち、その人たちに『未練がある』と思い込んでただけだったわ」。
そうだなオジサン、そういえばじいちゃんとも親父とも仲良かったもんな。
ただ、オジサン。『未練がない』って顔も見てるんですよね?ウチの親父の表情はどうですか?未 練はありそうでしたか?と訊いてみたが、
「もうわからん。ただ寂しいだけだ」
と、ボソッと言うだけだった。
歳をとれば徐々に死は身近になり、だからといって悲しみ強くなるかといえば、みんなそうではないみたいだ。
「死」というものに勝手に意味を含ませて、「これは何かを教えてくれている」などと小賢しい事 を巡らせた時もあったが、俺も火葬場のオジサンと同じく「ただ寂しいだけ」と思えるようにな れてきたのか。
猪木も、6代目圓楽も居なくなってしまってホントに寂しい。 ただションボリしている。
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