そんな感じで家族はみんな島根に引っ越してしまい、再び東京での単身赴任生活が始まりまし
た。
会社を辞めさせてもらう事は決まっていましたが、100人以上の部下のいる立場。ただでさえ恒常的な人手不足の業界で、日々の仕事をこなす事に追われてしまい、引き継ぎはままならない。
退社できる日がいつになるか、目処はまるで立たない状況でした。
倒産の憂き目の自分を拾ってくれた会社にも恩があるし、部下たちに負担をかけたくもない。東京を離れるにしても、なんとか誰の迷惑にもならないようにしてから離れるというのが「筋」というものです。
とはいえ、夫の実家に2人の子供を連れて戻り、義理の両親の世話までしてくれている家内のココロとカラダの負担を思えば、俺も早く島根に帰ってやりたい。
それに親父の余命はもうすぐそこまで来ているようでした。
しかし、
新店舗のオープンや新ブランド立ち上げ。
それに関する人材の確保や育成。
既存の店舗には日々様々なトラブルが有り、百貨店やデベロッパーからは売上へのプレッシャーやクレーム報告&処理・・・
これを全部放り投げて東京を離れたらどうなるかは、火を見るより明らか。
3年という短い間でしたが、一緒に働いてきた仲間たちに負担はかけたくない。
しかし島根の方でも、リミットが近づいている。
2010年2月。
申し訳ないという想いでいっぱいでしたが、仕事は中途半端な処理のまま部下に任せ、退社の運びとなりました。
子供の頃から憧れて止まなかった東京。
「自分の店が潰れる」というどん底のタイミングだったにも関わらず、その憧れの場所で暮らし働けたのは、こんなありがたい事はありません。
東京を離れる直前、会社の仲間たちがとても素晴らしいお別れ会をしてくれたのを覚えています。
会社、スタッフ、友人、そして家族。東京で知り合えた全ての仲間に感謝の気持ちでいっぱいでした。
そして、品川から新幹線に乗り広島まで。
そこから2時間バスに乗り、子供の頃憧れ続けた東京とは「真反対」の島根に到着します。
冬の島根。15歳で離れて以来、全く相変わらずの景色が広がっていました。
そんな忌み嫌った島根に戻りはしましたが、心配なのは置いてきた東京の業務。
東京の部下たちは大丈夫だろうか?
自分が抜けたせいで、負担がかかっていないだろうか?わからないところはないだろうか?と不安になっていました。
が、その後会社から「ちょっと教えて欲しい事がある」などという電話は一切ありません。
別に自分などおらずとも、業務は円滑に進むようです。
よく「俺なんて会社の歯車の1つ程度よ」などという自虐を目にしますが、システム上もし「歯車」であったなら、歯車は1つが外れれば全てが動かないはず。
なるほど、「歯車」にもなれていなかったというワケか・・・
神戸でも、東京でも何者にも成れなかった自分が、またこの島根で何かをやれるのか?
小学校や中学校までの道のりをずっと妨げていてくれたこの真っ白い雪を眺めながら、東京に着いた時の「ここから絶対這い上がってやる」という気持ちとは真逆の、暗い闇の中にいるような 不安に陥っていきました。
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