「食道ガンです。一緒に暮らせても、あと1年くらいだと思います」。
大学病院の先生にそう言われても、「死期ってそんなにハッキリわかるモノじゃないでしょう?」。その瞬間はオヤジの病状を真正面からは受け入れられませんでした。
しかし、その少し前に祖父も祖母もガンで亡くなっていましたし、確かにその二人とも、担当の先生のおっしゃった「余命どおり」でありました。
そしてその頃、我が家にはもう一つ大きな問題が。
オヤジが宣告を受けたほぼ同じ時期に生まれてきた次女は、出産後すぐに脊椎に障害がある事が判明し、生後まもなくすぐに大手術。
手術そのものは成功しましたが、当時、須磨の高倉台にあったこども病院からは「いつ歩けなくなってもおかしくない状況」と説明をされました。
その後はスクスクと成長し、何も不自由のない東京での生活が出来てはいたのですが、それでもココロの片隅にはいつも「車椅子での暮らしが始まる日が来るかもしれない」と、不安をかかえながらの日々でした。いざそうなれば、電車での移動が中心の東京では、相当の不便を強いることになるのは想像がつきます。
はじめて「都会で暮らす難しさ」を感じた時期でした。
子供は広いところで安心して育てたい、そろそろもう一度自分で商売を興したい。ちょうどそんな風に考えていた頃ではありましたが、車椅子での生活ならばもっと東京の中心に移った方がイイのか?そうなれば暮らしにかかるお金はもっとかさみ、いよいよ商売の事は諦めねばならないのか?
オヤジのガンと、次女の障碍。
ここが自分の人生のポイントになる。どんな選択をし、どう頑張っていくべきなのか。
ひとり、これからの「歩み方」について悶々とするばかりの時間が過ぎていきました。
が、家内の方は相変わらずカラッとした考え方で、オヤジの事も次女の事も全然心配していない。
それどころか、これから人生はもっと良くなるよ、だってね
「『広いところで子育て』して、『自分で商売』したいんでしょ?じゃあ島根帰ろうよ!なんかワタシ、東京合わんし笑」
自分では全く思いもつかなかった発想。
しかし、島根に帰る?いやいやいや、それは無いわ。俺はあそこが嫌いで飛び出したんだから。
「そうなん?ワタシは島根大好きよ!お義父さんも心配だし、じゃあ先に帰ってるね!」
と、娘二人を連れてさっさと島根に引っ越してしまいました。
旦那の実家に娘二人を連れて、しかも旦那抜きで暮らし始める。
相当肝の座った人だと知ってはいましたが、その想像の遥か上を行く女性でした。
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