第7回 島根 喫茶店のマスターが神戸に愛を込めて

ココロの兄貴

実家を離れて以来20年ぶりに島根に帰ってみると、まぁ何もかわっていない山陰の寒村。

冬の間はずっと曇りがちな日々が続き、雪で覆われた山々に囲まれた中での生活は、ここを出て行きたくて仕方がなかった中学生の頃とまるで同じ時空に閉じ込められたようでした。

かつて彫刻家の高村光太郎は病みゆく妻を診ながら『智恵子抄』の中で、「東京には空がない」と歌いましたが、ここ島根の邑南町と比べれば、新宿や上野公園のほうがよっぽど「空がある」。

狭い空に希望を探しても、光は厚い雲に遮られ、なるほど「山陰」という地名はコレ以上に表現しようがありません。

神戸でもダメ、東京でもダメ。

子どもの頃にはなにも取り柄がなく、「社会に出てからが勝負。東京で仕事をすれば、周りを見返してやれるハズなんだ」と思って島根を出ていった分、再びここに戻るしかなかった自分が非常に情けなく。

山陰の暗い気候。
メンテナンスも行き届かない実家。
ロードサイドの、開いてるかどうかも何屋なのかもわからない店。
そしてガンに弱りゆく親父。

次女リコの脊椎の病気もいつ発症するかわからず、絶望の只中で息をしているだけのような暮らしが始まりました。

当医の先生が「余命は2年です」とおっしゃったとおりのその春。 55歳の誕生日を迎えてすぐ、親父は逝ってしまいました。食道ガンでした。

その少し前に親父のために集まってくれた友人たちとの会の帰り、親父を背負って雪道を少し歩きました。

親父もずっと単身赴任の生活で、一緒に暮らした時間は5~6年しかなかったし、昔から口数の少ない人でしたから、リアルなコミュニケーションは多くはありません。

でもいつもオシャレでカッコよく、友達が多くて堂々としていて、田舎に戻ってウジウジしているような自分とは違い、山陰でも輝くみんなの太陽。永遠の憧れ、親父というより「兄貴」のような父親でした。

背中から少し話しかけてくれましたが、小さい声で「大丈夫だ。大丈夫だからな」と言うばかり で、心配しているのを紛らわせてくれているのか、それとも自分自身につぶやいているのか、何を言っているかはわからず仕舞いだったのが、それが最後の会話となりました。

同じくして、次女リコの脊椎も調子が悪くなり、神戸のこども病院に再入院。
まだ5歳なのに、失敗すれば車椅子生活が待つという不安な手術となりました。

しかし9時間という長い手術でしたが、おかげさまで大成功。
「身長が止まるまでは油断は出来ない」とは言われながらも、以来、中学生になった現在まで何も不自由なく生活が出来ています。

お袋によれば、意識がある親父の最後の言葉は、
「リコちゃんの病気は俺がむこうに持っていってやる。だから大丈夫だ」だったそうです。

あの俺の背中に語りかけてくれていたのは、次女の病気を思っての言葉だったのか、それはもう今ではわかりません。
でも、闘病は苦しかっただろうに、いつも自分以外の誰かを思いやってくれる人だったのは間違いありません。

最後の最後までカッコよく生きてくれた親父だったと感謝しています。

夢が破れたとか、田舎に帰らなければならないとか、あの人だったら、そんな事でいつまでも挫けてばかりはいないはず。親父がしてくれたように、自分ももう一度家族のためにしっかり商売を 始めよう。
血はつながってなかったけど、それ以上のものを与えてくれた人でした。

そして少しずつお金を貯め、強い意志を持って新しく「喫茶とおりみち」の看板を作り直しまし た。

この時「島根、喫茶店のマスター」として生まれ変わり、もう10年も経ちました。

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編集長

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神戸を愛し神戸に愛され続けて38年😆👍(つまり38歳)人と喋ることと文章書くことが好き過ぎて、うっかり編集長になってしまったタイプです。神戸及び兵庫県の『人』をクローズアップしたインタビュー記事をメインに、神戸っ子たちのコラムも充実♫ 地元の人にも神戸以外の人にも、軽〜く友達感覚で読んでもらえたらうれしいです😊💓

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