2010年に興南高校が、沖縄県勢初、史上6校目の春夏連覇をしたことは、覚えている人も多いだろう。
高校時代から、監督を中心に高校野球を見てきた私であるが、その時は単純に「我喜屋さんてすごい人だな」と思っていただけだった。
驚かされたのは、そこからだ。
我喜屋さんは、監督・校長・理事長の三足のわらじを履いている
2010年の7月から興南中学・高校の理事長に就任し、2011年4月からは同校の校長も兼任。
これを知ったとき、最初は頭が混乱して「えっ?我喜屋さん、監督辞めて校長になったのかな?」と思った。
それがなんと、監督・理事長・校長の三足のわらじを履いておられると知り、それまでも大いにあった私の我喜屋さんに対する興味はピークに達した。
さらに調べてみると、母校である興南高校の監督に就任した2007年夏に、いきなり24年ぶりの夏の甲子園を決め古豪復活を果たし、それまでは30年以上も北海道で社会人野球の監督をしておられたという。
全国に3857校(2022年時点)もある高野連加盟校の中でも、おそらくこんな監督は他にはいない。
すんなり決定した興南への取材
昔から高校野球ライターになりたかった私は「絶対に現役でいらっしゃる間に我喜屋さんに話を聞いておかなければ!」と、まだWEBマガジンを始める予定も何も無い頃から、ずっと考えていた。
前回、初めて神戸を飛び出して広島・広陵の中井監督の取材をさせて頂いた勢いそのままに「必ずこのシーズンオフの間に、もうひとつの念願も果たそう!」と、今回は何のためらいも無く興南高校に電話をした。
すると、なぜだかあちらも何のためらいも無く、その場で取材日程が決定した。
となると、すぐに飛行機の予約をしなければいけない。
電話対応をしてくださった我喜屋さんのスケジュール管理をされている方に「もう、この後、すぐ飛行機取っちゃいますけど、本当にいいんですか?」と念を押すと「っふふ。はい、大丈夫ですよ!」と思わず吹き出しながらも優しい声音で言っていただいて、今回の沖縄取材旅は始まった。
昔からの強豪校と、新興勢力である通信制高校の両方の取材をする
せっかく沖縄まで行くのだからということで、近年、沖縄でジワジワ増加傾向にある通信制高校の取材もさせてもらいたくて、我喜屋さんの取材の翌日は、2022年に創設されたばかりのエナジック高校野球部の神谷監督にも取材をさせてもらえることになった。
沖縄の高校野球といえば、私が実際に見た最古の記憶は、まだ栽監督がいらした頃の沖縄水産であり、その後は沖縄尚学や多種多彩な公立高校、そして我喜屋監督が戻ってきてから復活した興南。
いずれにせよ、沖縄の高校野球は、基本的に地元の人間だけでやってきたという伝統がある。
我喜屋さん自身もその1人で、高校時代は甲子園でベスト4。
この時は「興南旋風」と呼ばれ、地元沖縄は興奮の渦に包まれていたという。
翻って今、おそらく全国で1番の加速度で通信制高校が増え、力をつけてきている沖縄。
我喜屋さんは、今の沖縄の高校野球の現状をどう感じているのか。
ここ10年ほど、聞いてみたくてたまらなかったテーマだ。
この取材をする時は、どちらか一方の話だけではなく、両方の取材をしようという構想も、かなり前から私の中にはあった。
我喜屋さんの厳しい教えは、長年の社会人野球経験が基盤になっている
途方もない夢物語だと思っていたことが、いよいよ実現することに、信じられないような驚きを感じながらも、できる限り失礼の無いように我喜屋さんのことを色々調べてから挑んだ。
「非常識 甲子園連覇監督に学ぶ勝ち続けるチームのつくり方」という本を事前に拝読し、我喜屋さんの考え方は、長きに渡る社会人野球経験が基盤になっていることを知り、社会人野球にそれほど詳しくない私は恐れ慄いた。
「いつも左胸に辞表を入れて野球をしていた」ほどの厳しい社会人経験から、高校生を社会で通用する人間に育てるんだ!という「本気」さにも恐れをなした。
でも、やっぱり我喜屋さんのところに行くのはやめておこうとか、自分には無理だとかは全く思わなくて、これはもう思いっきり全力で胸を借りに行こう!とむしろ奮い立った。
「本気」で生きてきた人は、正面切って全力でぶつかってくる人間を決して邪険にはしないことを、これまでの少ない経験から、肌で感じて知っていたからだ。
取材直前に、突然襲ってきた緊張感
万が一、当日に飛行機が欠航になったりしたら困るので、念の為、前日の朝1番の便で神戸から沖縄に飛び、その日は我喜屋さんが中学、高校時代を過ごした那覇の街を散策しながら、当時の我喜屋さんの生活に想像を巡らせたり、A&Wで取材準備の仕上げをしたりしながら過ごした。
取材当日、興南高校の最寄駅である、ゆいレールの古島駅に降り立つと、ちょうど下校時間の興南生にたくさん出くわした。
車社会の沖縄では、ゆいレールの駅から歩いてすぐの所にある興南は、かなり都会の学校の部類だ。
下校する学生の流れに逆らうように正門をくぐり、お聞きしていた通り、事務局に向かった。
「我喜屋も、まもなく戻ってくると思いますので、しばらく椅子にお掛けになってお待ちください。」と案内され、我喜屋さんを待っていたこの数分の間に、突然、一気に緊張が押し寄せてきた。
「私は、なんという無謀なことをしようとしているのだろう」
「我喜屋さんに、とてつもない無駄な時間を使わせてしまうんじゃないだろうか」
不安でいっぱいになっていた私を、事務局に入って来られた我喜屋さんは「はい、こちらにどうぞ」と軽く招き入れてくださり、我喜屋さんの部屋のような、よく学校や会社にある大きなテーブルの両側に1人掛けのソファーが並んでいる場所で、取材は始まった。
趣旨を説明し、録音の許可を頂き、お話を始めたのだが、この録音データを聴き返してみると、初めの方の自分の声の上擦りが、これまで感じたことがない程の自分の緊張が伝わってくる。
そんな私に、我喜屋さんは何を聞いても真摯に答えてくださった。
何度録音を聞いても、バカにするとか下に見るとか舐めるとか、そんな様子は一切感じられない。
それは今までのどの取材相手の方もそうだったけど、我喜屋さんほどの年齢と経験値を持つ人のこの感じには、実は録音を聴き返す度に、ありがたさのあまり涙が出てしまうほど感激した。
昔の沖縄では指導者同士が「イントマヤー」だった
それでも序盤は真顔で淡々と話されていた我喜屋さんだったが、インタビューの中で初めて笑われたのは、「イントマヤー」のくだりだった。
我喜屋さんが沖縄に戻って来られてから、指導者同士の仲が良くなってるそうですね、と言った私に「昔はもう、イントマヤーだもん。意味知ってる?」
すみません、わからないですと言うと「イントマヤー(笑)犬と猫(笑)」
「犬と猫のケンカのこと、(沖縄では)イントマヤーって言うの。もう、この言葉、イントネーションが面白いからさ(笑)向こう(内地)では何というのか、犬と猿と言うのかな(笑)」
今は強豪校ほど、監督同士が「心の握手」
確かに最近は、強豪校ほど監督同士の仲が良い印象がある。
「内地は特にね。強豪校であればあるほど『おい、今回は頼むぞー』とかね。陸続きは試合回数も多いし、オンリーマインじゃないんだよね。共存共栄で行こうっていうのはあるけど、それができるのは、やっぱり大物の監督」
「俺ら社会人てのは、対戦相手とゴルフもやるしマージャンもやるし『よし試合は2時間!』で、それ以外は、みんな心の握手しながら人生送ってんだからさ」
この〝心の握手〟という言葉は、その後も何度も我喜屋さんの口から出てきて、私がこの日1番感銘を受けた言葉だった。
我喜屋さんが苦しいときに行く場所
そこから弾みをつけ、私自身も我喜屋さんとしっかり心の握手をしたくて、自分がライターになろうと思った経緯や、家庭環境が複雑になって諦めかけた過去の話もさせてもらった。
「人生は色々山あり谷ありって言うけど、山の上もいいもんでしょう?景色が良くてさ、登ってみれば。でも谷もいいもんだよ。泉も湧いてくるし、清流もあるし。で、ジャンプする前ってのは誰だってしゃがむでしょう。しゃがみっぱなしで、だからダメなんだ。しゃがんで、後でジャンプしようって気持ちがあれば、しゃがんでるのが楽しくてしょうがない(笑)」
「人生、色んなことがどんどん打ち寄せてくる。そういうとき、どこに行くの僕は?今度連れてってやるよ。喜屋武岬。波がガンガン来るよ。岩はどんどん跳ね返してるよ。波はこれでもかこれでもかと来る。岩はまた跳ね返す。でも奴ら(波)は汚い。干潮になると静か〜に逃げていく。でも岩は絶対動かない。人生ってこんなもんよ」
社会人野球の大昭和製紙時代、入社4年目に左遷同然で大昭和製紙北海道に飛ばされ、そこで踏ん張ってしっかり花を咲かせ、北海道勢初の都市対抗優勝を果たした我喜屋さんが言うこの言葉には、含蓄があり過ぎる。
「名将」たちは、自分に厳しく情熱的
「そもそも、勝つこと、甲子園に出ることしか頭にない監督ってのは、意外と甲子園出てないの。負けを選手のせいにするような監督は、ほとんど甲子園から遠ざかってる」
「試合は終了した瞬間に終わり。そのあとは心の握手。そのために整列すんだよって。愚痴言いたかったら日本酒相手にして1人でしゃべればいいじゃん。海行って、聞いてくれる人と2人で飲めばいいじゃん。大衆には向かっちゃダメ」
確かにその通りだ。『名将』と呼ばれる人ほど、人間力も高い気がする。
「人間力が高いというか、厳しいの。本心本音じゃないと人は作れない。僕、暴力は嫌いだから、殴り聞かせるより言い聞かせるタイプだから。でも言い聞かせるまでは大きな声も出すし雷も落とす。そういう情熱が無いと子供を教えられないよ。それはなぜかって言うと、子供が見抜く力を1番持ってる。目を見れば、この人、僕のことを本当に思ってるんだなってのは、わかるから」
野球を通じて、卒業生の「人生のスコアボード」に追加点を入れるのが生き甲斐
それを聞いていて思い出した話がある。
去年の秋に、2010年春夏連覇チームの4番だった真榮平大輝さんが、職場のJRで心肺停止の男性の人命救助をしたという沖縄タイムスの記事があり、その中で真榮平さんは「搬送後にリハビリを行うまでに回復されたと聞き、ホッとしている。野球を通し、今、何をすべきかを教わったおかげ」と語っている。
この記事を見て、さすが興南野球部出身と感動した。
「だから人生のスコアボードに、そういう話が来ると、うれしいわけ。どんなに野球が立派でも、例えばどこかの選手が犯罪を犯したとか、プロ野球やめたとか、じゃあ今まで何だったの?と。野球を通して人生歩ませた指導者の責任だと僕は言いたいわけ。本人も悪いけど、指導者がもっと悪い。僕はどっちかっていうと、親も教育するタイプなの、年齢的にも。それに興南高校は確かに特待生集めて強かったチームもあるし、集めても24年間出てないもん。だから教育が違うからだろう?と。世の中を教えなきゃダメだろう、ゴミ拾わなきゃダメだろう、1分間スピーチしなきゃダメじゃないの?と。」
「甲子園も社会人も、色んな全国経験、優勝経験あるからっていうんじゃなくって、そういう監督であるほど、教え子たちが世に羽ばたいたとき、数十年後に会社で課長部長になりました、というのを聞くとうれしい。あるいは全くレギュラーじゃなかった選手が『今、中学野球教えてます!興南野球取り入れてます!』と。高校で学んで、自分も弱いチームを強くして、それでも優勝できないかもしれないけど、教え子たちの偏差値を30から60に上げたと。勉強じゃない、人生の偏差値だよ。本来そこが好きだからやってるだけの話。それが僕の生き甲斐なの」
本には、こんな話がもっと具体的に書かれている。文面だけを見ると、あまりの厳しさに震え上がった私の気持ちも分かってもらえるかと思うが、実際にお会いして話を聞いてみると、我喜屋さんは、とても情熱的だけど人間味もあって、冗談を言うのも好きな人だった。
勇気を出して会いに行って、本当に良かった。
沖縄の高校野球の現状
では、いよいよ本題である沖縄の高校野球の現状についての話に入っていこう。
「今の沖縄の現状は、まずは毎年100人近くが県外に行ってるわけ。昔は地元の高校が出るなら、興南が出ようと沖縄水産が出ようとどこが出ようと、みんなで応援しようという感じだった。今日は興南高校準決勝やで!オリオンビール囲みながら家族親戚で!ってのが今はないでしょ。やっぱりその辺が変わってきてるよ」
これは確かに、「興南旋風」を実際に経験した我喜屋さんやその周辺世代の人たちと、今の若い人たちとでは、感覚が随分と違うように思う。
私自身、小さい頃は「沖縄では甲子園に地元校が出場するときは、街から人が消える。みんな家のテレビの前で応援してるから」と聞かされたものだが、最近の沖縄では、高校野球に対するそこまでの熱気は感じられない。
「興南が全員地元のメンバーで、地産地消で春夏連覇した。沖縄ではゴーヤーチャンプルー、ソーミンチャンプルー軍団で、相手の高校に勝つような光景が無くなるわけよ。興南が見本としたはずなんです。地元でも春夏連覇できるんだよってことを。ホントの高校野球は手作りなの。人を育てるのは手作りなの。高校野球ってのは勉強もちゃんとやって、野球が先じゃないでしょ、と」
どんな状況になろうと「人生のスコアボード」では、絶対に勝たせてやる!
「別に通信制が悪いとは言わない。僕は懐大きい方なの。ちゃんと正面向けて人間教育して、高校野球でどうしても必要なカリキュラムを達成する、最低でも6時間は勉強させると。その証があればいいんだけど、その内容が今の所は僕らに見えない部分があるから。通信制もいいけれど、これだけキャパの狭い沖縄に3つも4つも通信制学校が出てきたら、我々はそれでも甲子園に出てやるって気持ちはあるけど、一般の公立が、極端に言えば諦める。嘉手納だったら嘉手納高校に行こうとか、で、実際甲子園に出てる。宜野座だったら宜野座高校に行こうとか、で、実際(甲子園に)出てる。でも今は同情的に21世紀枠しかない。これが果たして、今後いいの?ってなるわけ。通信制は今、流行ってるけど、その子たちの将来の就職先はどうなってるのかだよ。本当に通信制の教育は間違ってないから、出口まで任せてくださいって言えるのか。だって他の学校は6校時まで勉強もしてさ、ヘトヘトになって練習してさ、ましてや県立でありながら甲子園出てさ。秋田の金足農業とか、感動するでしょう?だってこの狭い沖縄から100人も出て行ったらさ、逆にこっちも奮い立つんだけどね。絶対負けないぞ!って。いる人間で、もっと味付けの良い野球して、野球では負けるかもしれないけど、人生のスコアボードでは絶対に勝たせてやる!って。一生懸命6校時まで授業受けて、勉強の次の部活ってのが逆転するわけ。謳い文句が勉強しなくても野球に専念できるよって。ホントにこれで、人育てられるの?と。その道のプロになるわけじゃないんだから。これが、今、高校野球が危なくなってるよ、と。沖縄をはじめ、他の県にも普及していくよ、と」
私がこの10年ほど懸念していたことを、やはり我喜屋さんも同じように危惧しておられた。
幻に終わった2020年の沖縄県独自大会では、石垣島の公立・八重山高校が優勝している。
少年野球時代から力のあったメンバーが、揃って地元の公立に進学した世代だったそうだ。
コロナという非常事態だったとはいえ、彼らを甲子園の大舞台で見てみたかった思いは、今も消えない。
「地域の代表として、地元のみんなに応援される甲子園」が私は好きだ。
個人的には、他府県から選手を集めていても、監督の人間力や選手の努力が見えて、ちゃんと地元に愛されているチームは、それはそれで素敵だと思っている。
近年、増加傾向にある通信制高校にも話を聞きに行く
ただ、沖縄には今の所、そんな文化は根付いていない。だからこそ、懸念相手である通信制のチームにも話を聞きに行くのが今回の目的でもある。
「エナジック高校の神谷監督とは仲良いんだけどね。僕は僕でそういう思いがあるけど、向こうはそれがおかしいと言うかもしれないしね。そんなの自由じゃないかと」
「人間は知識教養を身に付けなきゃいけないわけよ。学力身につけなきゃいけない。そういう意味では、知識教養を疎かにしながらやる野球ってのは、ある意味では人生競争の原理だから、その子たち野球やめたら心配だもん。僕は大昭和製紙へ行ってもどこへ行っても、今の監督と違うのは、相当教育してるの。社会人野球である前にお前ら社会人だ、って。相当、高校の時に指導しておかないと、この先まちがいなく社会に行くから、社会の橋渡っていくわけだから。野球だけ、そればっかりやって失敗してるのプロ野球でも沢山見てるから。教育と野球の順番が逆になったら、マナーはどうでもいいし、タバコ吸っても何しても、だんだん何が悪いのよってなっちゃうからさ。まぁ古い人間ほど昔のしきたりにうるさくて、今の人に嫌われるかわからんけど、でも歴史伝統を昔の人はちゃんと作ってきてくれたの。我々も校則破った選手は使わないから。SNSで悪いことした奴は使わないから、退部させるから。大人になっても社会に出ても、秩序を守る、約束を守るって当たり前のことが待ってるでしょ。だから出来たばかりの通信制の野球の結果っていうのは、5年後10年後にならないとわからないわけ」
私も、ほとんど我喜屋さんと同じスタンスだ。
自分が高校生の頃はわからなかったけれど、大人になればなるほど、何事も「基本」が大切だとつくづく感じる。
高校野球100年の歴史と伝統を作ってきてくれた先人たちの考えの根っこの部分は大切に、今度は100年先の子供たちの為に、どんなに時代が変わっても、守っていかないといけない「基本」というものはあると思っている。
ただ、エナジック高校の監督の神谷さんも、浦添商業や美里工業を甲子園に導いてきた人だし、我喜屋さんとは〝心の握手〟をして、プライベートでは仲が良いという。
そんな神谷さんが、根っこの部分を疎かに考えているはずはないだろうと信じながら臨んだ翌日の取材の内容は、来月お届けします。
監督・校長・理事長の三足のわらじが、それほど負担ではない理由
我喜屋さんの話に戻ると、監督・理事長・校長という3足のわらじが、それほど負担では無いという。
「小さい頃は、親の仕事の手伝いもしなきゃいけない、学校も行かなきゃいけない。さらに家事の手伝い。それに畑仕事までやってたから。常に3つか4つの事はこなしてたんだ。だから、できない事は無い。『仕方ない』ってことを『仕方ある』に変える。いつもそう思って生活してきたから。興南に来て、最初に与えられたミッション、任務ってのは1 理事だったんだけど、春優勝した時に、学校もこんだけ業績赤字になってどうしようもないと。みんな逃げていく中で理事長に推薦されて、もう後に引けなくなって、だから1人でこの仕事することになったわけさ(笑)で、数字を見て無駄を全部なくして。この学校は〝だらり〟人生だったから。それをちゃんと理にかなった経営に変えていくためには、そりゃ衝突もあるさ。いくら人数多くても人はずっと雇わないといけなくて、この赤字はずっと続くよって。じゃあ僕もあんたたちの仲間になるから『3年後に一緒に泥船に乗って沈もうね〜!』って言ったの。『この最後を見届けようね〜!』って。もう開き直りさ。でも僕の開き直るっていうのは、心を開いて素直になって正しい道を歩むっていうのが、僕の開き直りだから」
「でも無理があるから、副校長っていうのをつけたり、色んな出ていく金と入ってくる金のバランスを見直したおかげで、今はもう、どんどん経営が良くなったわけよ。それから間髪入れずにすぐ図書館作ったし、この学校も全部リフォームできたし、先生方にも頑張れってことで福利厚生もつけているしリフレッシュ休暇も与えているし、それは僕の経験は、会社の総務部長ってのがあったから。今では生徒数も安定的になってるし。まぁ色んなことがあるけれど、僕は自分にできない事は無理してやろうと思わないの。さっき言った〝だらり〟につながるから。でも必ず助けてくれる人、協力してくれる人を見つけるのうまいから。本当のことを言えば事実に基づけば、ちゃんと応援者も出てくるってのも知ってるし。やっぱりあんまりコミュニケーションは好きじゃないの。コミュニケーションってのは一方的すぎる。伝達が一方的になったら困ると。日本には良い言葉があるよ。対話。そこから理解が生まれる。だから、対話方式に変えていくわけ。校長がみんなにワーっていうのはマスコミと一緒さ。一人ひとりのリアクションがわからんでしょ。野球も一緒だって、会社経営と。チームを動かすのも」
大企業で役職についていたからといって、誰もが我喜屋さんのようになれるとは到底思えない。
本にも書いてあったが、イメージ力が豊かで、常に2、3手先を考えて行動している我喜屋さん。
我喜屋さんの根っこ「少年時代」
その根っこは、生まれ育った環境にあるような気がしたので「小さい頃は、どんな子供だったんですか?」と尋ねてみた。
「僕は、小さい頃から、人からの情報よりも、今、相手は何をやってるのかなぁとか、どこで遊んでるのかなぁ、自分はどこで遊ぼうかなぁとか。玉城の海見て、船に乗って遠くまで行きたいなぁとか、山の上に登ってみたいなぁとか、想像力を働かせるのは得意だった」
「タッタッタと走ってます。優少年が海岸着きました。手に取った石を海に投げました。カーブ投げました。シュート投げました。タッタッタッタッ下に投げました。って、いつもしゃべりながら動いてたもん。いつかは小説家になってみようなんて大胆な事は考えなかったけれども、新聞記事になるような事は書いてみたいなって思ったことはあった」
「野球は、恵まれた家庭でもないし、グランドに行くようなボールとかバットとか買ってもらえるような家でもないし、まぁ誰かがやってれば『俺も入れてくれー』ぐらいのね。球場らしい球場もないしさ。生まれた田舎は、玉城は、そういう環境だった。那覇に移ってからは、誰かが『野球しないか〜?』みたいなこと言って『人足りないから〜』って呼びに来たらライト守るぐらいで、グローブっていうのは、ほとんど買ったことないし。田舎で青年団がやるぐらいのバスケットとかバレー大会とかあるいは棒高跳びとか。竹はあったから、浜で竹幅跳びしたりね。そういう事はしてた。それが古蔵中学に入ってから本格的に棒高跳びやったわけ。それで沖縄新記録を作っちゃった。そして興南に引っ張られた。だけど、野球も全くゼロの状態じゃなかったから。石を海に投げたりして肩は強かったし、そういう自然の遊びの中で、僕の野球に対する筋力は作られた。木登りやって、木から落ちて痛いのも味わったし」
「学校は真面目に行くわね。でも帰りは、海通って帰ったり山通って帰ったりして、日が暮れて腹が減れば家に帰るの繰り返しだった。だから頭使わないと、魚も釣れないわけ。頭使わないと、どこの畑にトマトがなってるとかキャベツがなってるとか頭働かないもん。だから野菜畑行くたびにトマト1個か2個食べたり。また優のガキャーに取られた〜って思われたかもしれないけど(笑)魚釣りも専門だったから、小学生の時に自分で魚を焼いて食べたこともある。だってお腹空くんだもん、お金ないから。親が仕事から帰ってくるまでに魚の煮付け作ってたりさ。だから料理するっていうのも頭使うし、全てのことが、どこか共通したところあるんだよ」
私のような、環境にも経済的にも守られた中で育った人間とは、根本的に頭の構造が違うようだ。
そして文中にさらっとあるように、我喜屋さんは中学時代は棒高跳びの選手として沖縄新記録を作って興南高校に推薦入学。
高校入学後に野球に転向し、甲子園でベスト4という脅威の身体能力の持ち主なのだが、それは玉城の自然の中で培われた能力だという。
北海道出身の奥様が、沖縄で寮監として愛されている
最後に、我喜屋さんが奥様の話をしてくださったので、せっかくなのでその話も載せておきたい。
「うちのカミさんは『あんたと結婚したのは大失敗だった』って何回も言うんだ(笑)僕が興南に戻るから沖縄行くって言ったら『いいよー!私は遊びに行くからねー』って(笑)『沖縄の人と一緒になったってどこがいいとかも教えてくれないから観光もしてないし』なんて言ってたのに、遊びに行くどころか、興南の寮監になってね(笑)2月16日が彼女の誕生日なんだけど、生徒たちが、僕が寝てる間に夜中に『奥さん奥さん!』て呼び出してきて、その後、食堂で何かあったんだね。帰りは花束と色紙持って、うぇんうぇん泣きながら来て『何してんのや、お前(笑)』って言ったら『お父さん、これ見て!うれしい!』って。花束はいいけども色紙見たら『僕が具合悪い時、病院連れてってくれた』とか『食欲ない時はお粥作ってくれた』とか『私たちのマドンナです』とか書いてあって、何がマドンナや!って(笑)でも、あぁ俺にはないものが彼女にはあったんだなぁって。母親役っていうね。監督は、親父の役、友人の役、監督の役っていう三権の長の役ならできるけど、母親役だけはやっぱり僕にはできないし。ほとんどの人はこう言ってる。春夏連覇したのは我喜屋監督じゃないよ〜奥さんだよ〜って(笑)俺はそれに反論して、北の大地で育った女性には、沖縄の優しい男じゃないとダメだったって言うんだ(笑)』
奥様の話をされるとき、我喜屋さんの表情は完全にほころんでいた。
北海道出身の奥様が、沖縄で寮監となり、生徒たちにものすごく慕われているなんて、とっても素敵なお話で、聞いているこちらも終始ニコニコ顔になった。
終わりに
帰りがけに「少しでも良いものを書けるようにがんばります!」と言うと、「うん、スポーツを通して、みんなが幸せになるようなね!」と笑顔で言ってくれた我喜屋さん。
私が事務局から退出するまで、ずっとニコニコと見送ってくださっていた。
高校野球は、100年前と今とでは大きく変わっているように、これからも様々な形で変化していくだろうが、興南高校を自ら選ぶ選手は、今後も一定数いるだろう。
興南に加え、比嘉公也監督が率いる沖縄商学という私学2強に並んで、力のある公立高校も多く存在する。近年、そこに食い込んできている通信制高校。乱世の覇者になるのはどこか。今後も沖縄の高校野球から目が離せない。
そんな状況だからこそ、我喜屋さんのように厳しいことをキッパリ言い切ってくれる人には、まだまだ現役でいてほしい。
先日のWBCのチェコ戦で、興南出身の宮城大弥選手が、華麗な牽制球でアウトを取った。
高卒4年目の若手プロ野球選手とは思えないほどの、見事なマウンドさばきだった。
「状況を常に把握する」という我喜屋さんの教えが、確実に今の日本の野球の一部を作っている。
私自身も、これからも書くことを続けていく上で、今回伺った「人間は風見鶏になったって良いんだけど、根っこまで動いちゃいけない。自分の根っこは、しっかり持っておかなきゃいけないよ」という言葉は胸に刻んで生きていこうと、さらに身が引き締まる思いがした。
我喜屋さん、これからも、社会で、そして世界で通用する野球人を、人間を、つくり続けていってくださいね。
また、会いに行かせてもらいます。
その時は、ぜひ、喜屋武岬、行きましょう!
この度は「我喜屋さんにお会いしたい」という長年の夢を叶えていただき、本当にありがとうございました。
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