先日、弊マガジンでコラムを書いてくれているココロの兄貴に会いに島根に行ってきた。
兄貴は広島寄りの島根で奥さんと一緒に「喫茶とおりみち」というお店を経営している。
その日はランチのみ営業だったので、夕方から数時間、お店で色んな話をすることができた。よく考えたら兄貴とこんなに話したのは初めてだった。
「今日はこのあとどうする予定なの?」と聞かれ「初めての島根なので、せっかくだから出雲に行ってみたいなと思ってます」と言うと、「それなら送ってったげるよ」と言ってくださり、島根の土地勘が無い私も軽い気持ちで「え、いいんですか?ありがとうございます!」なんてお言葉に甘えてしまったが、兄貴のお店から出雲までは片道1時間ちょっと掛かった。
車の中でも色々な話ができて私は楽しかったけど、それだけの時間を掛けて1人また帰る兄貴のことを思うと、この出雲をムダにはできない!という使命感にかられた。
その夜はとりあえず駅前のビジネスホテルに泊まり、翌日は朝からバスで出雲大社に行った。
関西人にとって伊勢神宮は馴染み深くて行く機会も多いが(今はわからんけど昔は神戸の小学生の修学旅行先は伊勢が定番だった)、出雲大社は「よっしゃー!出雲まで行くぞー!」となかなかの気合いが必要となる距離なのだ。
でも日本に生まれたからには1度は行ってみたいと思っていた出雲大社に、38歳の終わりにようやく来られて感慨深かった。
出雲大社の前のこの風景がとても印象的で、ずっと心に残しておいて時々取り出して眺めたい。
しかし、問題は出雲から神戸への帰りのルート。
行きは広島まで新幹線、そこから高速バスで1時間、と楽々だったが、出雲から神戸はさながらスティールボールラン。
バスで広島まで3時間、からの新幹線
or
特急やくもで岡山まで3時間半、からの新幹線
という究極の選択。
出雲から神戸への高速バスは、到着時刻が遅くなりすぎるので見送った。
こんな機会でもないと乗ることもあるまいと特急やくもを選んだが、3時間半なんて軽くグアムに行けちゃうやんと思いつつ、未読の文庫本を2冊持参していたけど、活字中毒の私はそれでも不安でコンビニでさらに文庫本を2冊購入して臨んだ。
「なるほどねー」と思ったのは、特急やくもは途中停車駅もいくつかあるものの、乗客のほとんどは岡山を目指していてほぼ全員が3時間半の総力戦に挑んでおり、牧歌的な車窓も相まってか、途中からみんな「家か!」と思うほどくつろぎ始めた。
すんごいイビキをかきながらだらしなく眠るオジサンや、確実に家でしか見せないような姿勢でボ〜ッとスマホゲームをする女性。
私ぐらいは最後まで自分を律していたいと思っていたけど、大山を見終えた辺りで、オジサンのものすごいイビキに誘発され、よだれを垂らしながら寝落ちしてしまった。
やっとの思いで岡山に着いて新幹線に乗ると、乗客がみんなスマートに見えた。
というか新幹線の人々はいつも割合スマートだ。
そして思った。
特急やくもの雰囲気は、沖縄から帰る飛行機に似ている。特に夜便のそれだ。
リゾート帰りの人々は心地よい疲れの中、まだ南国の空気を体に纏ったまま、飛行機の中でだらしなく眠りこける。
出雲という神聖な場所で癒された人々もまた、特急やくもで心地よくまどろんで時間をやり過ごす。
数時間、狭い空間で何もすることがないという閉塞的な理由もあるものの、やっぱり心が良い具合に緩んだあとの乗り物にしかない空気感だと思った。
新幹線は各駅ごとの新陳代謝も激しい上に、まぁまぁの「目的意識」を持って乗っている人が多いからスマートなんじゃないかなぁ。
マクロ的な(つまり大ざっぱな)人間心理として考察するに、新幹線や夜行バスは「社会」で、リゾート帰りの飛行機や特急やくもは「家」な感じだ。
小さな子供がプール帰りの車の中で気持ち良さそうに眠るような感覚が、特急やくもにはあった。
大人になってそれが許される数時間は、実はものすごく贅沢で幸せな時間なんだな、と気付いた。
はりきって用意した文庫本4冊は、結局1冊しか読みきれなかった。
起きている間も大半は、兄貴との話の流れからの連想で達川光男のことを考えていた。
兄貴に導いてもらった出雲の旅は、とてもとても有意義だった。
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